「お金にはあまり興味なし」が正解の日本語教師

投稿者: | 2017年9月5日

先日、Twitter上で2回目の日本語教師チャットがおこなわれていました。私も参加したかったのですが、野暮用があり参加できませんでした。が、その様子をまとめたものが上がっており、どのような議論がなされたのかがよくわかります。

第2回「#日本語教師チャット」まとめ

テーマは「日本語教師と待遇」

なかなか興味深い内容です。昔から「日本語教師は薄給」ということで相場は決まっています。私は海外にいるので単純に日本の会社や官公庁に勤める人々と比較はできませんが、単純に今もらっている韓国ウォンを日本円に直すと、やはりバリバリ働いている同年代の勤め人よりは額は少ないと思います。

もちろん「待遇」というのは年収や月収だけの問題ではないので、収入の多寡だけでどうこういうことはできません。また、「日本語教師」と言っても、大学の専任から日本語学校の非常勤まで、様々な機関、様々なポジションの人々が含まれるため、一括りに語れるようなものでもありません。が、とりあえずこの日本語教育業界がそれほど実入りのより業界でないことだけは確かでしょう。

ここで議論すること

では、なぜ我々日本語教師は薄給なのでしょうか?基本的に外国人が相手であるため一般に認知されておらず公的予算がつきにくいとか、日本語学校の場合は学習者を連れてくるブローカーが利益の多くを得ていて、最終的なしわ寄せが教師に来るとか、様々な要素が語られます。しかし、ここではそれは議論しません。

じゃあ、何をここで議論するの?かと言うと、「なぜ日本語教師は薄給を受け入れているのか」ということです。

なぜでしょう?巷では「やりがいがあるから」ということで通っているみたいですが、これは理由になっていません。確かにある種のやりがいはあるでしょう。しかし「やりがいがある」仕事というのはたくさんあります。そしてその「やりがいがある」職種に従事する全ての人が「薄給を受け入れている」わけではないでしょう。

我々はお金に関心がない

「なぜ、我々は薄給を受け入れているのか」。橋本治(2009)『大不況には本をよむ」にその答えが出ていました。

この本は黒船来航から第二次世界大戦、高度成長期、バブルの崩壊、そしてアメリカのサブプライム問題を発端とする大不況の到来までを、「日本経済」を中心にざっくりと説明し、そして最後には「本を読もうぜ」と主張する本です。非常におもしろい本なんですが、文庫本のp148、p149に良いこと(?)が書いてありました。

私の理解を簡単に書きます。

いわゆる文系と言われる領域には「法学」「経済学」「文学・その他」があります。著者は「法学」は「官の栄え」を担当しており、「経済学」は「民の栄え」=「民間会社の栄え」を担当していると言います。では「文学・その他」はこの社会において何を担当しているのでしょうか?

私も文学部でしたが、いわゆる「文学部」のカバーする領域には、文学・言語学・宗教学・民俗学・心理学・社会学・美術学などが含まれます。こういった学問は「官」でも「民」でもなく、「人間のあり方」を担当しているんですね。

著者はこう言います。「人間のあり方に立脚するというところにいる人は、金勘定が下手なのです。」

そうなんです。著者は「金勘定が下手」と言っていますが、これはつまるところ、「お金にあんまり関心がない」のです。これが正解です。我々が薄給に甘んじているのは、興味のポイントがそこにないからです。

もちろん、「我々は人間のあり方というものに関心がある高尚な人間であるため、お金の問題など興味ない」ということを言っているわけではありません。私だって、一時間授業をやって1000円もらえるか、2000円もらえるかといったら当然2000円もらいたいですし、福利厚生が安定したところで働きたいとは思います。若い頃は薄給でも構いませんが、結婚したり子育てをするようになると、お金が必要なのは当然ですし、お金の問題を考えないわけにはいきません。

でもね。そもそも「お金に関心がない」のよ。そのコースがどのくらい収益を上げるかよりも、「こうやったら授業がおもしろくなった!」とかの方に興味があるんですね。

「日本語教師の待遇を改善せねばならない!」という声が出てきたら、「おおよ!」「そりゃそうだな!」「こりゃいかん!」と思うには思うんですよ。でもね、時間が経つと、まあいっか、と思ってしまうんですね。

他業界、他分野からの流入で問題が活性化

そもそも我々は日本語教師は食っていけないぞ!っていうのを知りつつやり始めたわけです。でもなぜ、思い出した頃に、「薄給」とか「待遇の悪さ」の問題が前景化してくるかというと、それは日本語教育業界が外からの流入が比較的多い業界だからです。

もちろん大学で日本語教育を専攻して、ずっと日本語教育に携わっています。という人も少なくないでしょうが、それと同じくらい「大学の専攻は他のこと」で、「他の業界でバリバリ働いていた」人もいます。その人たちは根っからの文学部系ではなかったり、会社文化とかの水を知っていることから、日本語教育業界の待遇の悪さに黙っていられないのでしょう。「これおかしいよ!」と。

で、その「これおかしいよ!」は冷静に考えると、その通りなんですよね。だから、我々みたいな純文学部系はそう言われると、「確かにそうだな…」と思ってしまうのです。が、思ってしまうだけ。

もしホリエモンみたいな人がこの業界のあり方を見たら卒倒するんじゃないんでしょうか?そして本気でこの業界の改革に乗り出したら、きっと一変するんじゃないかと思います。が、おそらくホリエモン的な人はあんまり興味ないでしょうね。

まとめ

というわけで、「日本語教育業界の待遇」についての一側面を見てきました。

上で私は

では、なぜ我々日本語教師は薄給なのでしょうか?基本的に外国人が相手であるため一般に認知されておらず公的予算がつきにくいとか、日本語学校の場合は学習者を連れてくるブローカーが利益の多くを得ていて、最終的なしわ寄せが教師に来るとか、様々な要素が語られます。しかし、ここではそれは議論しません。

ということを書きました。そもそもね、なぜ待遇が悪いかについて議論しないのかというと、そういうことが全然わからないし、興味がないからなのです。

きっとこの文章は他方面から怒られそうです。でも分かる人もいるはず。誤解なきよう申し上げますが、私は「このまま低待遇に甘んじよう」ということを主張しているわけではありません。なぜ低待遇に甘んじながらも行動に移れないのか、についての事実認識を書いただけです。

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