レビュー『上手な教え方の教科書-入門インストラクショナルデザイン』

投稿者: | 2019年12月6日

向後千春(2015)『上手な教え方の教科書-入門インストラクショナルデザイン』技術評論社

「インストラクショナルデザイン」という言葉をちょっと前からよく聞くようになりました。たとえばこれ↓なんか、受けてみたいな~と思うんですけどね。

日本語教師のためのインストラクショナルデザイン入門(あひるのバタ足)

その他でもよく話を聞くのですが、恥ずかしながら何にも知らないので、とりあえずこの本を読んでみることにしました。

インストラクショナルデザインとは?

私たちは生活する中で、誰かに何かを教えるという行為を日常的におこなっています。「教える」のは学校の先生だけではありません。子供に自転車の乗り方を教える、両親にスマホの使い方を教える、友達に料理の作り方を教える…数えればきりがありませんが、

教える機会や必要性はたくさんあるにもかかわらず、私たちは教え方を学んできませんでした。学校では常に、生徒・学生としてさまざまな科目を教えられてきました。しかし、教え方だけは教えられてこなかったのです。(p24)

そうなんですよね。確かにそうです。そして、

何かをうまく教えるための技術と科学を扱う学問が、インストラクショナルデザインです。(p25)

ということです。「教える」というと、「教育」=「エデュケーション」というのが思い浮かびますが、ここ扱うのは「インストラクション」=「指示」なんですね。つまり漠然とした「教育」ではなく、具体的な「何かができるようになるための指示」を扱っています

日本語教育でいうと、「行動中心アプローチ」ですよね。「~ができるようになる」というcandoがあって、それができるようにどのように授業を構成するか、指示をおこなうか、クラス活動をおこなうかが「行動中心アプローチ」です。授業の結果は目標のcandoを達成できるかどうかではかるという点で、インストラクショナルデザインが扱うものと、行動中心アプローチの概念は非常に近いです。

あ、あと「指示」としましたが、インストラクショナルデザインが扱うのは「明示的な指示」だけではないようです。私たちは「教える」というと、先生が教壇に立って講義をするイメージを持ちますが、

教え手がそこにいなくても、インストラクションが成立するようなシステム全体をデザインしようとするのです。その意味で、教え手が壇上に立ち、学習活動の中心にいようとすることを排除します。主役は教え手ではなく、学び手なのです。(p30)

これは使えるあらゆるリソースをすべて活用しておこなう「自律学習」に近いイメージですね。つまり、「教える」ことだけじゃなくて、「学ぶ」ことすべてを包括しているというわけですね。

というわけで、何か成し遂げたい事柄を「いかによく教えるか」ではなく、「いかによく学ばせるか」についての理論や方法が書かれているということですね。以下に本書を読んで私がハイライトしたことについてつらつらと書いていきます。

教え方の効果の割合は15%にすぎない

学習成果の要因の割合は、過去の研究から以下のように説明されています。

40% 教育外要因(もともとの学習能力)
30% 教育関係要因(学び手と教え手の人間関係)
15% 期待・希望・プラセボ要因(外からかけられる期待)
15% モデルや技法要因(教え方そのものの効果)
(p33、34)

つまり、誰かが何かを達成できるようになったとしても、「教え方そのもの」が寄与したのはたった15%しかない、ということです。これは私の実感も似たようなものです。「結局本人の心がけや能力次第だよな」と思うことが多いです。

では、教え手がそのたった15%を改善していくことに意味はあるのか?ということですが、学びの過程には多くの変数があることを忘れてはいけません。

教え手と学び手、そして教え方、それを取り巻くコンテキストそれらが一体となって、教えること・学ぶことが成立します。そのシステムの中で、教え方の要因がたとえ15%の重みしか持たなくても、そこが変わることによって「システム全体」が変わる可能性があるからです。(p34、35)

これは素晴らしいですね。以前、学習者の自律性は育てることができるのか?という議論がありましたが、「教師のやり方次第で学習者の自律性を育てることができる」という話をどこかで聞きました。もし教えることが15%しか寄与しなくても、そのたった15%の部分に変化をおこすことによって、その人の学び全体が大きく変わる可能性があるということですよね。また、

面倒なのよ、教えるっていうことは。常に「相手=学び手」がいて、それが最大の変数になっているからね。(p51)

これは納得です。だとしたら教え手としては「どうすればその変数を味方につけられるか」を考えていく必要がありますね。

間違える理由を考える

私がハイライトした部分の一つに、

ある人が何かをできないからといって「どうしてできないの?」と問いかけることは、ほとんどの場合、役に立ちません。(p113)

これは深く反省しました。さすがに日本語の授業で「どうしてわからない?」「どうしてできないの?」と学習者に問うことはありませんが、「どうしてわからないの?」とやきもきすることはよくあります。また、子育ての場面では息子たちに何度か言ったことがあります。

では、「どうしてできないの?」という代わりに何をすればよいか。…引用しようと思いましたが、長くなるので本書をご覧ください(笑)。

大事なのは「どうしてできないの?」と問いかけるのは意味がない、ということで、その問いかけをする代わりに、もう少し科学的にアプローチしていく必要があるということです。

学び手が主体

これは本書を通じて何度もでてくることですが、やはり学びの主体は学び手であるということです。

教えるということを仕事にしている人は「何か(私の教えられるものを)教えたい」と本能的に思うかもしれません。しかし、インストラクショナルデザインでは「誰かに、何かを教えたい」ということからは出発しません。(p165)

学習者中心主義においては、学習者が自分自身の学習を制御することが大切だという見方をします。(p191)

誰でも良いコースを作ろうと思って設計する。それは確かなことよ。しかし、それが本当に良いコースであるかどうかは、学習者がコースの中で「成功」したかどうかだけで、評価されるわけね。(p223)

私も数年前から、自己紹介するときに「日本語を教えています」という言葉を発することに違和感を感じるようになりました。というのは、私は別に教えていないからです。おそらく語学教師というのは誰でも「教えていない」のではないでしょうか。

私の主たる業務は「何かを教えること」ではなくて「ポイントを抽出して練習させること」「日本語及び日本語学習に興味を持たせること」「学習を管理すること」などなどです。その中に「何かを教えること」は入っていません。

その「感じ方」=「教えているとは思っていないこと」はあながち間違いではないような気がします。

まとめ

というわけで、とりとめもなく読んだ本の感想を書いてきました。別にこのレビュー自体に何か構成や主張があるわけではなく、「映画の予告編」みたいなものです。

ここまでの記述の中で何かひっかかることがあれば読んでもらいたいと思います。

実際、内容的にはそこそこ日本語教師として訓練を受けてきた人には「当然のこと」ばかりです。でも、結構忘れてしまうんですよね、そういうことって。この本を読んで、体系的に「教え手の責任」や「教えることの意味」をもう一度考えていきたいですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です