フランソワ・グロジャン(2018)『バイリンガルの世界へようこそ』勁草書房
結論から言いますと、非常におもしろくて、ためになりました。一読後は「バイリンガル」に対する考え方が変わりました。読みながらハイライトした部分が多すぎて、どう収拾がつくかわかりませんが、またいつものようにつらつらと書いていきます。
一応個人的なことを最初に述べておきますと、私は日本人ですが、妻は韓国人です。韓国にしばらく住みましたが、その間に男子2人をもうけました。今は韓国を脱出して、カンボジアに住んでいます。
特別ではないバイリンガル
「バイリンガル」と聞くとどのようなイメージを持つでしょうか?子どもの頃外国で育ち、2つの言語をどちらも「完璧に話すし、読み書きする」。そんなイメージを持つのではないでしょうか。しかし著者は、
日常生活の中で 二言語またはそれ以上の言語を使う国の人たちは、自分の持つ複数言語について同等かつ完璧な能力を保持してはいません。さらに、幼少期ではなく、青年期、あるいは成人してから(複数の)言語能力を身につける人が非常に多いのです。(p3)
と、言います。そしてバイリンガルの定義としては、
「二言語またはそれ以上の言語や方言を日常生活の中で定期的に使用すること」(p4)
を上げています。…ということはですよ、この定義によれば、実は私もバイリンガルだったということです。別にそれぞれの言語を完璧に使える必要はないのです。話せるけど読み書きはちょっと、という言葉があってもバイリンガルなのです。
そして、この定義を適用すると、
世界の人口の半数近くがバイリンガルあるいは複言語話者であると推定されます。(p1)
世界の半数ですよ。それはもう、本当に特別なものではないということです。世界中に男と女がいるようにバイリンガルも存在しているということですね。
あふれるバイリンガル愛
世界のバイリンガルの中にはマイナー言語のバイリンガルもたくさんいます。その場合、バイリンガルであることに否定的になる人がいることもあります。
私は以前韓国にいましたが、周りには東南アジア出身のお嫁さんがちらほらいました。あくまでも印象ですが、その間にできた子供(つまり韓国人と東南アジア人のハーフ)はお母さんの方の言葉はあまりできない、ということが多いような気がします。韓国では当然韓国語がメジャー言語で、東南アジア系の言語ができることをそれほど利点としないからでしょう。
一方で英語圏出身の人と韓国人の間にできた子供は、かなり高い確率で英語を話していました(もちろん韓国語も)。日本語は微妙な感じで、旧時代的な家庭だと、日本人嫁に対して「韓国語の習得が遅れるから子供には日本語を話すな」というお姑さんなどもいるようです。
バイリンガルと言うと我々は「アメリカ仕込みの英語をペラペラと話す日本人」を想像し、多国籍企業かなんかでバリバリ働くリア充っぽいイメージを持ちますが、必ずしもみんながみんなそうではないということですね。
しかし、この本の中ではバイリンガルは全的に肯定されています。肯定というよりは愛と言ってもいいかもしれません。
(バイリンガルは)110 M ハードル走の選手に似ています。ハードル走は高跳びの能力と短距離走の能力の両方を結びつけるものですが、このような能力は分割不可能なもので、完全に一つの能力を形成しています。 アマチュアの陸上競技選手であっても、110 メートルハードル走選手を高跳び選手や短距離走選手と比較しようとは考えないでしょう。(p22)
これは良い例えですね。高跳びの能力と短距離走の能力はそれぞれの言語能力のことです。英語はどのくらいできて、日本語はどのくらいできる、ということを考えることも時には必要かもしれませんが、その人のコミュ力を考えるときにはそれぞれを分割することに意味はありません。
バイリンガルはその人に固有の言語的アイデンティティを持っており、そのようなものとして分析され、記述されなくてはいけません。(p22)
この考え方はCEFRにおける「複言語主義」ですよね。
バイリンガルであり、各言語の能力に強弱がある部分はまさにその人の愛されるべき「個性」なんですね。
バイリンガルになるには…
バイリンガル、と聞くとどうしても「生まれたときから」という感じがしますが、そうでもないようです。
生後ただちに二言語で育った同時的バイリンガルは少数派で、(中略)、アメリカで調査を行ったところ、このようなバイリンガルの子どもは六から一五%しか見られなかったそうです。(p76)
青少年期かそれ以降でもバイリンガルになれるのでしょうか。もちろんです。(p76)
実際、私の周りにいるバイリンガルを考えてみましても、生まれつきのバイリンガルは国際結婚家庭の子供たち以外にはいません。
ほぼネイティブ並に英語と韓国語両言語を操れる友人もいますが、その人にしても小3のときに韓国からアメリカに渡ったそうです。ただ、注釈を加えておきますと、その人は話す限りではわかりませんが、韓国語の読み書きレベルはおそらく私にも劣るくらいです。やはり、「完璧完全なるバイリンガル」というのは非常に難しいのでしょう。
子どもがバイリンガルになるために必要なことなどもいろいろと書かれています。
ある言語を知らなければならなかったり、使わなければならなかったりすることが二言語使用や複言語使用の基盤ですが、 子どものバイリンガリズムを発達させようと願う人々はこの点を軽視することが実に多いのです。(p77)
要は「必要性」ってことですね。
必要性に加えて、 子どもの生活の中で中心的な役割を果たす人々からその言語が首尾一貫して提供され、それがある一定期間にわたって続いていなければなりません。(p77)
これは「一人一言語の法則」みたいな言葉でよく説明されるものですよね。私も息子たちには基本「一人一言語の法則」であたってきました。おもしろかったのはこれ。
話し相手が人と言語の結びつきに違反をすると、幼いバイリンガルの子供たちは混乱のあまりかなり激しい抵抗を行います。(p85)
これわかるわ〜。今でもそうなんですが、特に10歳の長男は私が韓国語で自分に話しかけることを非常に嫌がります。「日本語なまりだから他の人に聞かれると恥ずかしい」というのならわかるのですが、そうじゃないんです。他の人に対して話すのはいいのですが、「自分には日本語で話してくれ」といつも言われました。
下はバイリンガルになる?ための時間数です。
六歳でバイリンガルになるためには少なくとも2700時間にわたり第二言語にさらさられなければならないと算定しました。外国語の授業が週に3時間あるとして、1年間では108時間の間その言語に接するに過ぎないと見積もっています。(p79)
だったら、毎日テレビでも見せておこうかしら、と思ったりするでしょうが、
言語は人間を通じて提供されるものであって、テレビや DVD プレーヤーといった視聴覚や映像によるものではだめなのです。(p80)
また、言語的な働きかけも大事ですが、それ以外の家族のサポートも必要だと言っています。
その言語が社会的に承認されているようなものであればいいのですが、そうでないマイナー言語の場合周りのそれに対する考え方や言動が重要になってくると言っています。
上で書いたマイナー言語で子どもに語りかけることを良しとしないお姑さんなどもってのほかです。あと、今は日韓関係が最悪の時期なので、韓国にいる日本語・韓国語のバイリンガルなんかも大変な時期かもしれません。
子供は自分たちの環境が反映されている言語の地位やイメージに非常に敏感です。(p81)
世の中には、悪意がないながらも子供の言語習得を阻む要因が満ち溢れています。それを守れるのは、親であり、周りの家族・親戚です。
また、p90におもしろい話がありました。
他の国にきた幼い兄弟の話ですが、兄は外交的で間違いを気にせず初めての言葉でも臆せずコミュニケーションをとろうとしました。反対に弟は内向的であまり話そうとしませんでした。しかしですね、
話し始めると、 ピエールのフランス語にほとんど誤りはありませんでした。(p90)
これは第二言語習得の話で聞いたことがあります。話すためには、話す練習が必要だが必ずしもそれは「話すこと」によらなくてもいい、という話でした。どのように話すかを頭の中でイメトレするだけでも、それは話す練習になる、ということです。
■レビュー『外国語学習に成功する人、しない人-第二言語習得理論への招待ー』
いろいろな方法
両親の接し方で面白いことが書かれています。以下はp98~p101の内容。 今、私のいるカンボジアで、カンボジア人の男性と日本人女性の間に子供がいると仮定して考えてみましょう。
①一人一言語
これは既に言及しましたが、お父さんはクメール語でこどもに話しかけ、お母さんは日本語で話しかけるというアプローチですね。私もこの方法を採用しました。ただ、
しかしながら危険性もあり、二つのうちの一言語がその地域や国で少数言語であるような時など、子どもは学校に通い始めると、最も重要な言語だけを使用するようになります。両親がバイリンガルであれば、なおさらそのようになります。(p99)
まさに私の家庭がそのケースでした。長男は幼稚園に通う前まではむしろ日本語が優勢だったのですが、幼稚園に入って、そして決定的なのは私が韓国語が理解できるとわかると、それ以来私にも韓国語で話しかけるようになったのです。
その辺の過程につきましては、以下に詳しく書いています。
ベルギーの心理言語学者アニック・デ・ハウワーは、
およそ2000家族に対する調査をもとに、このようなやり方にもとづく限り、少なくとも四人に一人の子どもがバイリンガルにならないことを解明しました。(p99)
とのことです。
②家庭ではある言語、外では別の言語
このアプローチは家庭ではマイナー言語を話し、外ではその国で支配的な言語を話すということですよね。つまり、カンボジアなら家では日本語を話し、外ではクメール語を話すことになるでしょう。
一番の難点とは、おそらく両親のうち一人が自分の第二言語あるいは第三言語を子供に話さなければならないということです。(p99)
これは結構大変ですね。ただし、日本人の奥さんがクメール語が全然できない、そして夫婦のコミュニケーションは日本語でとっているという場合、自然にそうなるかもしれません。
日韓の夫婦で、韓国に長らく住んでから日本に移り住んだ私の知り合いは「家では韓国語」と決めているそうです。それは韓国人の奥さんが日本語がそれほどしゃべれないということも関係あると思いますが、「日本語は外で話すから、韓国語を忘れないように」というのが強いようです。
③まず第一言語を、次にもう一言語を
就学前の他との接触が少ないうちに母語の基礎をしっかり作っておこうというものみたいです。就学する年齢になると、ローカルの学校に通う限りクメール語のシャワーにさらされることになります。その前に日本語だけを使って子育てをし、母語の基礎を作ってしまうというものですね。
これも状況によってはありかもしれませんね。ただ、この流動的な世の中で、なかなか長期的なヴィジョンを持ってそれをおこなうのは難しいような気がします。私の場合も、上の子が10歳になるタイミングでカンボジアにやってきて、日本人学校に入りました。そんなの生まれたタイミングでわかりませんからね。
④ある言語を使う時を決める
これは、1週おきで日本語とクメール語とか、午前中は日本語・午後はクメール語のようにするアプローチです。
なかなか家庭では難しいと思います。実際、学校のバイリンガルプログラムなどで行われることが多いそうです。
⑤自由なアプローチ
場面ややりとりの内容、話しかける人によって、さまざまな言語をそれぞれ取り替えられるように使うものです。(p100)
これはよくわかりませんが、まあテキトーに二つ以上の言語で話しかける、という感じでしょうか。これはなかなか難しいんじゃないかな~と思います。
というわけで、長々と書いてきましたが、実はハイライトした部分はまだまだあります。せっかくですから、この内容も2回に分けて書きたいと思います。
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