レビュー『英語とわたし』

投稿者: | 2020年4月19日

岩波新書編集部編(2000)『英語とわたし』岩波新書

今住んでいるプノンペンで、1000リエル(30円くらい?)で手に入れた古本です。

23名の各界の著名人が、まさにこの本のタイトルである「英語とわたし」という題で書いたエッセイを集めたものです。

もう絶版になっていると思われる20年ほど前の新書なんですが、たまたま読んだら思いの外おもしろかったです。また全体として見ると語学学習の本質について述べられている感じがしたので、ここで備忘録?でも書いておこうと思います。

英語はどうにかなる?

23名の、英語と関わりのある著名人がエッセーを書いているわけですが、「私は英語がとても得意です」という人は一人もいませんでした。みんな「自分は英語が下手だ」と言っているんですね。

もちろんこの「下手だ」というのは注釈が必要で、例えば船橋洋一氏は

ああ言えばよかった、こう言えばよかった、と国際会議が終わってから思わない人がいたら教えて欲しい。(p157)

と自身の英語力について嘆いていますが、国際会議でしゃべれるくらいの英語力はあるわけです。だから「英語が下手」というのも程度ものだと思いますが、重要なことは英語を流暢に操っているように見える人も、み〜んな同じように「私は英語が上手ではない」と言っているんですね。

そして同時に、著者陣が口を揃えて言うのは「自分の英語はそれほど自慢できるものではないが、なんとかなっている。そして、そのことを良しとしている」ということですね。

これは私達にとって良いニュースでもあり、悪いニュースでもありますね。英語は難しいが、どうにかなる程度にはできるようになれるということですから。

よく、バイリンガル教育や子供の言語習得のときに「子供は必要性がないと言葉を覚えない」ということが言われます。大人でもそれはまったく同じですね。著者たちは自分の仕事を遂行するために英語を使っているのですが、その仕事の遂行に必要なくらいの英語は運用できるようになるのです。反対に、その英語力で遂行できる範囲の仕事をしているとも言えますが、とにかくそういうことです。

目的別の学習

著者である著名人はさまざまな分野の人がいます。ジャーナリスト、演劇人、政治家、大学教授、ニュースキャスター、作家などなど。だから使う英語にも当然違いがあり、学びかたも違います。

例えば演劇人である鴻上尚史氏は俳優の教育方法を学ぶために、ロンドンの演劇学校に入学したそうです。そこでの講義やワークショップは当然英語でおこなわれます。その時、鴻上氏は「聞くこと」に7割、「しゃべること」に2割、「読むこと」に1割をあて、

「書くこと」は無視します。時間がないんですから、「書くこと」に割く時間はありません。(p26)

と豪語します。でもそれは鴻上さんが英語学習一般について述べているのではなくて、「自分が演劇学校で学ぶために必要なこと」を考え抜いた際の結論なんですね。「ロンドンの演劇学校ではどんな能力を高めれば、授業についていくことができるか」ということです。

鴻上氏はまた、おもしろいことを言っています。「下痢」は英語では「diarrhea」というらしいです。もちろんこの単語を知らない英語ネイティブはいません。しかし、英語ネイティブに聞いても誰一人そのスペルがわからなかったと言うんです。

それは、つまり、日本人が「下痢」と漢字で書けなくても、読めるということに対応します。(p26)

そして、「下痢」という漢字を書けるように時間を割くより、一つでも多くの単語を覚えた方が有用であるということを言い、それは英語でもおんなじ、と言うんですね。

このあたりは激しく同意します。鴻上さんは過去にとった自分の英語学習の方針について述べているだけですが、語学学習についての深い洞察に深い敬意の念を感じました。

もちろん、他のことを言う人もいます。当時東京大学教授の上野氏は

私たち漢字文化圏に属する国では、話すこと以上に読み書きできることが重要視されてきた。欧米の話す文化圏にたいして、書く文化圏での語学教育は読み書きが中心になる。今日、英語が話せない英語教育の非難をよく耳にするが、日本語できちんと話すことができないのに英語でできるはずがない。読み書き中心の従来の英語教育は間違っていなかったと思う。(p93)

と、読み書き重視の英語教育の復活を主張しています。

鴻上氏と上野氏はまったく逆のことを言っていますが、どちらが正しいとかではなくて、どちらも「真」なんですよね。それぞれの人はそれぞれの立場で「何を優先すべき」という結論を出していて、それが経験にもとづくその人の「真」だから、どちらの主張も説得力があります。

これを語学教育に置き換えていうと、目的なしの語学教育はありえないということになります。最近は「行動中心アプローチ」とか「一斉授業の終焉」みたいなトピックがじわじわ来ていますが、まさしくそういうことなんですね。この本を読むと、それがよくわかります。20年前の本ですけどね。

英語より内容!?

あと、何人かの著者に共通していたのが、「英語は手段にしか過ぎない。それ以上に専門分野での実力を育てることが大事」といったことです。

研究者は、その人しか話ができないような良い研究成果を持っていれば、それを理解しなければ損になるので、米国人も聴いてくれるのだと勝手に理解した。そのためには、英語を勉強するよりは、専門の発がんの研究に精を出した方が良いと心に決めた。(p103) 杉村隆氏

国連で尊敬される人は、英語を含む外国語が流暢だから尊敬されるのではない。むしろ、その人のいうことが、公平で正しかったり、複雑な事柄を納得できる仕方で分析することができるからである。(p110) 明石康氏

こういう言い方はよく聞きますよね。でも、これはやはり「卵が先か鶏が先か」という問題で、いくら専門性や人間性を育てても初級文法を知らないと話もできないのは言うまでもありません。

ただ、みんながみんなそのように言うということはやはりそれがある程度「真」なのでしょう。逆ですけど、私だってどうしても聞きたい内容の英語講義などはやっぱり聞きますからね。どうでもいい内容だったら英語の話なんて聞きません(笑)

また、これは20年前の本ですけど、これからは本当に内容勝負になるでしょうね。自動翻訳とか、そういうのがどんどん進んできましたから。

その他

あと、興味深かった内容を散発的に。

「国が貧乏になれば、英語を喋れるようになりますよ」(p128) 藤井省三氏

動機がどうあれ、他者とコミュニケーションを取りたいという願望が語学力を上げるということですね。貧乏な国は他者・他国とのコラボで金儲けをしたいとか、世界的なランクを上げたいという欲望が強いのでそれだけ共通語である英語を覚えようとする力が働くという話です。

そこそこ金があって、そこそこ内需があって、国内でのポジション取りに成功すればそこそこ食べていける日本人が英語に本腰を入れられない理由でしょうか。

また、現防衛大臣の河野太郎氏の「政治家は人間関係を作るのが仕事だから英語が必須」という話、ジャーナリストの吉田ルイ子氏の

英語をはじめ、言葉は知識の共有には有意義だが、こころの共有には、世界では、地球的にけっして全能ではない。むしろ対立を起こしかねないほど危険な武器だと留意すべきではないだろうか。(p156)

という話には深く納得しました。ローカルの言語を学ぶ必要性について述べてあるのはこの人だけだったような気がします。これも20年前の日本社会が英語一辺倒に傾倒していたということでしょうか。

まとめ

もうおそらく絶版?になっている本だと思いますが、非常におもしろかったです。ちょっと備忘録的に書くつもりが、「書きたいことが全部収録できない」くらいになってしましました。

何度か上で書きましたが、この本がおもしろいのはすべて、その人の「真」なることが書かれているからだと思います。23名いれば23名の回答があるのですが、それが全部「正しい」ことなんですね。

以前私は「授業の実践報告」みたいなものを書いてアカデミックな媒体に投稿したりしていました。そのときによくジャッジの人に言われたのが「エビデンスを示せ」ということです。

つまりある授業をやったら、それに対してちゃんとした数字なりなんなりの証拠を提出しなければならないということです。それはまあ、理解できないこともないんですが、私がやってるのって実践報告なんですよね。実践報告の価値って、それを読んだ人が「あ、私もこういう授業やってみようか?」と思うところにあると思っています。

だったらね、形式を満たすだけのおざなりな「学生に対する調査」とかを論文に組み込むのってあんまり意味ないんですよね。だって「どういう授業をやった」という内容を見るだけで、読む方はだいたいわかりますから(笑)

まあ、この話はすると長くなるし、馬鹿にされそうなんでここでやめときますけど、とにかく私が好きなのはこういう「それぞれの人の真実」を読んで、それを考えることです。とてもおもしろい本でした。

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