「あなた」という呼称について

投稿者: | 2020年6月8日

もう一年くらい前のことですけど、私の職場に日本人学校の子どもたちが社会科見学に来ました。小学校1年生と2年生の可愛らしいこどもたちです。

その中で一つびっくりしたことがありました。先生が子どもたちを全員「~さん」づけで呼んでいるんですね。例えば「太郎さん」とか「花子さん」とか、そんな感じです。

少なくとも私の子ども時代に、小中高を通して「~さん」付けで呼ばれた記憶はありません。ちょっと小1の時の記憶はありませんが、呼ばれたとしても「くん」付けだったでしょう。高学年以降は「さくま」という呼び捨てがほとんどだったと記憶しています。

そんな中で先生たちが子どもたちを「さん」付けで呼ぶのを聞いて、「時代は変わったものだ」と思ったものでした。

※以前、野球選手の松井秀喜選手のお母さんが、松井選手のことを幼い頃から「秀喜さん」と呼んでいた、という記事をみたことがあって、「それは素晴らしい」と思ったことがあります。

「あなた」という呼びかけ

私には二人の息子がいますが、二人とも日本人学校でお世話になっています。4月から新学期が始まりましたが、オンライン授業が続いています(息子らの通う日本人学校のオンライン授業の運営はなかなか素晴らしいです)。

家でオンラインで授業を受けているので、息子と先生とのやり取りが自然と聞こえてきます。その中でやはり担任の先生は「~さん」付けですべての子どもを呼んでいます。1年前の経験があるので、特にびっくりはしませんでした。

しかし、一つびっくりしたことがあります。時として、先生が子どもを「あなた」と呼ぶことがあるんですね(基本的には「さん」ですが、ときどき「あなた」が聞こえるのです)。

あまり聞き慣れない言葉でしたので驚きました。

息子らに「子供のことを「あなた」って呼ぶ先生は他にいるのか?」と聞いたところ、「他にいるどころか、結構いるよ」とのことでした。

日本語教育における「あなた」

もし、初歩の日本語学習者が「あなたはどこに住んでいますか?」と聞いてきたら、私なら「「あなた」という呼称は日本語ではあまり使わないので、避けるほうがいいです」と言うと思います。

「では、どういう時に使いますか」と聞かれたら、「女性が恋人の男性や自分の旦那に使う場合や、テストの問題などの指示で不特定多数の人を呼ぶときですかね」と答えると思います。

しかし、今回の日本人学校での使用は私の理解と違うものですので、「もしかしたら自分の感覚が違っているのか?」と思い、ちょっとググってみました。

一つヒットしたのがこの調査論文(すぐにPDFが開きます)です。

米澤陽子(2016)「二人称代名詞「あなた」に関する調査報告」『日本語教育』163

「あなた」の使用実態を調査したものですが、この議論と関係ある結論としては以下のようなことが書いてありました。

・上位者に対して「あなた」を使うケースはほとんどない。
・下位者に対しては「場合により」使うことがある。年齢が上がれば上がるほど使用が増える。
・しかし下位者に対しても「全く使わない」人は全世代で60%を超える。

この「下位者」には「自分の子ども」というのも含まれています。もしそれを除外したら、下位者への使用はもっと減るのではないかと思います。

というわけで、私の一般人としての感覚と日本語教師としての感覚はあながち間違っていないのではないかと思います。

そもそも日本語教育の現場では「です」「ます」の形から始まることが多いですよね。それはまずは丁寧な言い方を身につけておくほうがいろんな意味で有利であろう、という判断からかと思いますし、特別なニーズがない限り私もその方策は間違っていないと思います(丁寧な表現から覚えてまずはガードを固めるという方策ですね)。

ですから、初歩の学生に対して、「とりあえず「あなた」は使わないほうが無難である」と伝えるのは常識的な判断かと思います。

無色な「あなた」

論文の中に、以下の一節があります。

「あなた」には失礼さが生じる一面と、フォーマルだと認識される一面の両方があることが見て取れる。

これって一瞬??ってなりますよね。著者は不特定多数を示す「あなた」(例えばテストの問題文や、広告などにあるもの)は話し手と聞き手との関係を表示せず「無色」になる、と論じた過去の研究を引用したあとで、

「あなた」は、対話者の社会的要素を表示することなく、話者が聞き手である二人称を絶対的に指し示す語だということである。

とまとめました。うーんなるほど。わかりみが深い(あってますか?この使い方)。

つまり、私の理解で言うと、「あなた」を使うと関係が無色になり、上下関係が薄れる反面、関係性の断絶からくる突き放し感が感じられるんですね。それで、その突き放し感が、あるときは「失礼」に感じ、あるときは「フォーマル」だと感じるわけです。うーんなんとも難しい言葉です。

今、ここまでの説明を聞いて「これは使いにくい言葉だな」と思わなかったでしょうか?私は自分で書きながら思いました。

「あなた」は使いにくい言葉だと。

そうなんです。だから調査にあらわれているように使う場合が限られるのです。年下だからといって無条件的に使える言葉ではないのです。

なぜ先生は「あなた」と呼ぶか

先日、非常に気になったので、このような調査をしました。

サンプルが29しかありませんが、この調査からわかることは「あなた」と子どもを呼ぶ先生は少なくないということです。おそらく、小学校界隈では「あなた」は一般社会よりも使われているであろうということが推測されます。

まずその理由としては、先生に対する児童は圧倒的な下位者であるからです。

しかしそれだけでは説明がつきません。なぜ、先生は名前を知っているにも関わらず子どもを「あなた」で呼ぶ必要があるのでしょうか。その鍵はやはり「あなた」の持つ「無色性」というところにあると思います。

そもそも最近の先生方はなぜ子どもたちを「さん」付けで呼ぶのか、と考えると、性差別を始めとした子どもの人権問題みたいなものが以前よりもピックアップされるようになってきたからではないでしょうか。

敏感な親御さんもいますし、社会自体が良くも悪くも厳しくなっていますし、何かと批判の俎上に上がりやすい学校の先生です。その先生たちができるだけニュートラルで無色な呼称を選択するというのはよ~く理解できるのです。

また、インターネットで他の記事を読んでいたら、こんな悩み相談がありました。記事にリンクは張りませんが、

「子どもに家庭教師をつけているのだが、その先生が子どものことを「あなた」と呼ぶ。嫌だ。どうしたら良いか。

というものでした。その悩みに対する反応を一部抜粋します。

・大人が子供を「きみ」と呼ぶのは普通です。まして「あなた」なら丁寧です
・自分と相手の立場を明確にする必要がある場合、なあなあにならないようにするために あえて、君とかあなたとか呼称する場合もあると思います。
・中学生以上ともなれば、互いに対等な一対一の真剣勝負ではないでしょうか。

つまり、人によっては上下関係がある中でなら「あなた」は気にならない、という人が結構多く、またその「無色性」からくる「関係の断絶」をクールな意味合いで捉える人も少なくないということがわかります。

まとめ

上で引用した論文によりますと国語審議会は1952年に、人を指す言葉は「あなた」を標準とするということを建議しているらしいです。しかし、「あなた」は日本社会での全体での使用の実態を見ると相手を指す標準的な表現としては生活に根付いているとは言えないでしょう。

ただ、教員界隈ではここまで見てきた理由によって、「そこそこ選ばれている」とも言えますね。最初は違和感で始まった「あなた」呼称問題ですけど、考えれば考えるほど、小学校の先生たちの苦労が身にしみて来ました。子どもや保護者との関係性の中で選ばれている呼称なんでしょうね。

私も小学校教員の友達が何人かいますので、今度帰省した時にいろいろ聞いてみようかな、と思います。

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