レビュー『日本語は「空気」が決める〜社会言語学入門』

投稿者: | 2020年6月10日

2020年6月の#日本語教師ブッククラブの課題図書は、石黒圭(2013)『日本語は「空気」が決める〜社会言語学入門』光文社です。

目次を概観するだけでも、扱う内容が幅広いことがわかります。社会言語学の入門書にふさわしい一冊と言えるでしょう。

第一章 社会言語学とは何か
第二章 地域に根ざした言葉
第三章 話し手に根ざした言葉
第四章 聞き手に合った言葉
第五章 状況に合った言葉
第六章 伝達方法に合った言葉
第七章 日本語の人称表現
第八章 言葉と言語
第九章 言葉と文化
第十章 言葉の変化
第十一章 言葉と政治

読み物として非常におもしろく読みました。今回も私がハイライトした部分を引用しつつ、この本の紹介をしていきます。

「ふさわしさ」の言語学

まずはじめの方にこのような記述がありました。

ちまたには、日本語について書かれた本は溢れていますが、その多くは「正しさ」について書かれた本です。そこに、私の懸念があります。(KindleLocations162-164)

「懸念」とまではいかないですが、「正しい」日本語関連の本って結構売れるんだな~と思ったことはあります。「それは本来の用法ではない」と指摘してくれる類の本ですよね。「確信犯」とか「役不足」とか、もう何回聞いたことかわかりません。

もちろんそういう本も好きなんですよ、私は。読むたびに「ほ~」と思ったりしますからね。目に入ったらついつい読んでしまいます。

例えば、「お疲れ様です」「ご苦労様です」という言葉があります。よく議論される表現です。おそらく一般的な約束事としては「お疲れ様」は目上にも使えるが、「ご苦労さま」は目上には使えない、といったところでしょうか。しかし、そもそも慰労表現を目上に使っても良いものだろうか?ということもあります。そうなると、どちらも目上には使えないということになります。

で、結局どちらなんでしょうか??「お疲れ様」「ご苦労様」はどういった場合に使うんでしょうか?答えは?っていうと、おそらく「答えはありません」というのが正解になると思います。

言葉は場面や時代によって変わり、正解がない。なのに著者はそのような「正しさ」を追い求める本が巷にあふれていることに「懸念」を示しているわけです。

そして、そういった本(=理論言語学)との対比で、

理論言語学が「正しさ」の言語学だとするならば、社会言語学は「ふさわしさ」の言語学です。(KindleLocations160-161).

としています。そうです。この本は人が言語活動をおこなうときに、どういった場合で、どのような語を選択肢、どのように運用しているのかについて記録した「ふさわしさ」の言語学についての本なのです。

※もちろん日本語教育に従事していると、ルールから逸脱する表現を耳にすることが多々あります(「おいしいだと思います」とか)。その問題といわゆる「正しい日本語」の問題はまた違います。

呼称にまつわる話

そういうことで様々な角度から「ふさわしさ」について述べられているのですが、私が最も興味深く思ったのは人称表現の問題です。

日本語はゼロ代名詞言語(pro-drop/pronoun-droppinglanguage)と呼ばれることがあります。文脈からわかる場合、代名詞はないのがふつうであり、特別なニュアンスを込めたいときだけ人称表現を表出するということです。ですから、英語の人称代名詞にくらべて、日本語の人称表現を表出すると、聞き手に強いメッセージとして伝わるのです。(KindleLocations1839-1842)

そうそう、英語を話すときは楽だな、と思うことがあります。誰と話すときでも自分は「I」ですし、相手は「You」って言っとけばいいわけですからね。日本語は相手の関係性によって「I」も変わるし「You」も変わるんですから大変ですよね。

最近増えてきている一人称に、「こっち」「こちら」というものがあるそうです。(KindleLocations1865-1866)

だから↑こういうニュートラルな一人称が増えるというのも理解できますね。

ニュートラルな一人称として「自分」も多様されるようになっているそうです。

この自分は軍隊用語の役割語としてとらえられ、自衛官や警察官だけが使うように見なされてきたきらいがありますが、実際にはいろいろな人が使っています。(KindleLocations1884-1886)

思い出しました。私は元自衛官なんですが、自衛隊で、上の人と話す場合には「自分」が多様されていました。だいたい入ったばかりの人は「おれ」を使うんですが、まず最初に教育隊でこれを直されます。

「おれ」じゃねえんだよ

と教官に怒鳴られるんですね。とはいえ10代後半とか20代前半の若者が「私」というのもねえ…。だから選ばれるのが「自分」なんでしょうね。

また、ちょっと話は変わりますが、「わし」という一人称についても役割語という観点から触れられています。

まわりに「わたくし」と自称するご婦人や「わし」と自称する老人など、まずいないのではないでしょうか。(KindleLocation1712)

これを読んで思ったことは2つ。まず、私の父は自分を「わし」と言います。しかし、それは父が若い頃からのようなので方言の影響が強いのかな、とも思います(父は金沢の出身です)。それと、もう一つ思ったのは、

年をとったら「わし」を使おう

ということです。なんか最近高齢の人が「老害」だのなんだの言われて煙たがられるじゃないですか。クレーマーみたいなのも高齢の方が多いとか。その一つの要因として「年寄のくせに」という部分があると思うんですよね。だって若いチンピラみたいな男が態度悪くても、もちろんそれは嫌ですけど、しょうがないな、みたいなところがあるじゃないですか。同じことをやっても高齢者だと「老害」になる、みたいな。

だから年取って蔑まれないためには世間のイメージに合わせるのが一つの方策だと思うんですよね。縁側でひなたぼっこしながらお茶をすする好々爺になるということですね。そのための「わし」。さすがに現役中には使えないと思いますが、一線を退くくらいの歳になったら「わし」を使いたいなと思います。

この一人称の変化に関しても、この本では触れられています。

ゆうちゃん/ ゆうた → ぼく → おれ/ 自分 → ぼく → わたし
(Kindle Location 1728)

私の場合は、「ぼく」は実は遅かったんですよね。小学生から「おれ」で通していましたが、今「おれ」と言って話せる人はいませんね。人生の終焉は「わし」に決まりです。

しろう→おれ→自分→ぼく/わたし→わし

あと、こんな話もありました。

お父さんやお母さんのことを「健一さん」「香ちゃん」などと呼ばせる家庭もあります。(KindleLocations1925-1926).

クレヨンしんちゃんが母親を「みさえ」と呼ぶのは、「呼ばせている」というよりもしんちゃんが勝手に「呼んでいる」だけですよね。でも「名前で呼ばせたい」という人もいるんですね。これは一度も考えたことがなかったのでびっくりです。

ちなみに「わし」と称している私の父(名前を「ゆたか」と言います)ですが、初孫には「ゆたかさんと呼んで」と言っていました(結局定着しませんでしたが)。また、思えば私の姉も私の息子には「じゅんちゃんって呼んで」と言っていたような気がします(思えば姉が独身の時代ですね)。

孫や甥姪に名前で呼んでもらいたいっていうのは、やっぱり「おじいちゃん」なり「おばちゃん」なりの呼び方に抵抗があるからでしょうか?となると、自分の子どもに「名前で呼ばせる」というのは「お父さん」「お母さん」という呼び方にも抵抗があるからなのでしょうか。とにかくおもしろい現象だな、と思います。

「~さん」と「~先生」

言語を扱う商売だけに、この人称表現だけもいろいろ話し合いたいことがでてきますね。収拾がつかなくなるのでこのくらいにしておきます。とにかく、この本は言語好きなら突っ込みたくなるところ満載の本なわけです(もっと深く突っ込んで話したいということですよ)。

人称・呼称表現に関していいますと、ここまで見てきたように日本語は非常にめんどうな言語なわけですが、一つだけ良い表現があります。それは「~さん」という呼び方です。

「~さん」というのは非常に便利な言葉です。状況にもよりますが、年齢・性別に関わらず使えます。「~さん」と言われて憤慨するような人はまずいないでしょう。学習者に対しても「さん」が使えますし、私は学習者に「さくまさん」と言われても別に嫌な気はしません(時々嫌がる先生もいますね)。

また驚くべきことに、今私はカンボジアで働いていますけど、この職場でも「さん」付けが幅広く使われています。例えば私が英語などで会話をする相手でも私を呼ぶときは「サクマサン」と呼ばれたりします(注:カンボジア一般で「さん」付けが広まっているということではありません。あくまでも日本語と関連のある私の職場だけでの話です)。

この万能性は他の言語に接してみるとよくわかります。上述したように英語などでは「You」と言っとけば問題ありませんけど、そういうのがない言語ではやはり相手をどう呼ぶかを考えなければなりません。

韓国語は結構面倒です

韓国語にも「さん」に対応する「シ」という表現がありますが、「さん」ほど幅広く使えません。基本的に目上には「シ」は使えませんからね。私は10年以上韓国に住みましたが、「シ」を使ったことはほとんどありません。「さん」を使わないで日本語で生活するのは難しいと思いますが、韓国なら「シ」を使わなくてもできるかと。

ちなみに、では韓国ではどのようにこの問題を回避しているかというと、やはりそれは呼称を発達させているんですね。

職場などではやたら役職が多いです。「課長」とか「部長」はまだわかりますが「代理」「チーム長」「室長」みたいなものも呼称として機能しています。またちょっと親しい関係になると「お兄さん」「お姉さん」も多様されますね。

また、最初びっくりしたんですが、距離感のわからない関係の場合「先生」が多用されます。韓国に来たばかりの頃「先生」と呼ばれて、「なんでこの人は自分の職業を知っているのだろうか?」と驚いたものです。

ああそうそう、本の中にはこんな一節もありました。

教員がたがいに先生と呼びあうことに違和感を抱く(Kindle Location 1928)

日本語教師あるあるですね。みなさん同僚の先生をどう呼んでいますか。私は結構、この「同僚を「先生」と呼ぶ」のには抵抗がないんです。おそらく韓国で培われたものだと思いますが、「呼称」と割り切れるんですよね。「先生と呼ぶことの違和感」は「同僚は私の先生ではない」というところから来ると思いますが、呼称と割り切ればそんなに違和感も感じません。

あと、それとは別に、自分の先生ではなくても「~さん」付けで呼ぶのには抵抗のある人もいます。自然に「~先生」が口を出てくるとでもいいますか。

まとめ

すみません。本の紹介をしていたのでした。何を書いていたのかわからなくなってしまいました。つまり、我々のような言語を扱うものにとってはネタの宝庫である、ということがこの記事の脱線具合からも証明されたと思います。

大学の学部生に対する社会言語学概論の授業とか、これでいろいろ話し合いをさせたらおもしろいだろうな、と思いました。あ、それを目論んでの章構成なんでしょうか。以下のような記述も最後にありますしね。

本書は、社会言語学の入門書として、基本的な術語をできるかぎり盛りこみ、その概念を丁寧に説明するように心がけました。(KindleLocations2991-2992)

とにかくおもしろい本ですのでぜひ読んでみてください。

また呼称に関して、↓のような記事も書いていますのでよろしければご笑覧ください。

「あなた」という呼称について

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