大人数での会話の授業は演じるしかないのか

投稿者: | 2017年8月28日

私は韓国の大学で日本語を教えているんですが、もうすぐ2学期が始まります。8月末のこの時期は2学期の授業準備の時期です。今学期何やろうか~2月、8月はいつもそれを考えています。

今回はいつも私の頭をぐるぐる回る「会話の授業、どうすっかな~」について整理したいと思います。

しばりのない会話の授業

毎年同じような内容で授業をする科目もあるんですが、一つだけそうもいかない授業があります。それが日本語を専攻している学生相手の会話授業です。

この授業は上からの丸投げで、テキストや進度、目標など、何一つ決まったことがありません(カリキュラム編成上、これは良くないと思いますが…)。ただ「会話の授業」をやるだけなんです。この「全く縛りのない授業」っていうのは、人によって好きな人もいるみたいなんですが、全てを自分で考えなければならないため、かなりヘビーです。もちろんうまく行けばうまく行った分だけ充実感もありますが、なにもないところから生み出すのはなかなか大変です。

会話の授業に学生が期待すること、というのはほぼ決まっています。それは「とにかく話したい」ということです。この「話したい」という欲求に応えることを一応の目標とします(もちろん、話さない会話の授業というのもアリなんですが、これはまた別の話なので)。

大人数での会話の授業

まず問題になるのが人数です。この授業は30人前後の受講生がいます。まあ、大学などでは普通かもしれませんが、30人の学生にどうやって会話指導をするか、悩ましいところです。仮にネイティブスピーカーである私と会話練習をする形式の授業をやろうと思ったら、大変なことになります。私は聖徳太子ではないのですから、1対1の会話を想定すると、一人の学生が喋っている間は残りの29人は聞くことしかできません(私が聖徳太子だったとしても、残りの20数名の学生は口を閉じてないといけません)。

だから普通はこういう場合「ペアワーク」とか「グループワーク」をおこなうことでしょう。ペアワークであれば、30人いても同時に15人が「話す」という行為をおこなえるわけですから、一人の時間あたりの発話量は増えます。

母語を同じくするもの同士での会話

ここは韓国ですから学生のほとんどは韓国人です(まれに日本人や中国人がいる場合もありますが)。だとすると、当たりまえですが、「ペアワーク」なり「グループワーク」の会話は韓国語母語話者同士で日本語で話すという構図となります。

私はここで引っかかるんですよね。「練習だから」と割り切ってやればいいだけの話ですが、なぜ「練習とは言え韓国人同士で日本語で会話しないといけないの?」って。

過去の研究では、「ネイティブスピーカーとの会話練習はリスニング力の向上につながる」「母語を同じくする者同士の会話練習はスピーキング力の向上につながる」という結果が出ているものもあります。でも、学習者はここで戸惑うんじゃないかって思うんですよね。

例えば、ある学生がちゃんとした日本語で話したとします。でもある学生はその意味がわからなかった。そうするとちゃんと話した学生としては困ることになります。だって自分の能力が低くて話が通じなかったわけじゃなくて、相手の実力が低くて話が通じなかったわけですから。

ロールプレイを用いた会話練習

また、ペアワークとかを行なう際は、普通に話せばコミュニケーション上何も関係ない人同士でやりますから、ある意味「演じる」部分が出てきます。だってそうでしょ?もしそのコミュニケーションの内容が大事なら韓国語で話せばいいわけですから。

どうせ「演じる」のであれば、設定も全部こちらでやっちゃいましょう、というのが「ロールプレイ」です。「隣の人が夜遅くまでギターを弾いています。なんとか日本語で話して静かにしてもらいましょう」とかいう。どうせ演じるわけですから、こういう教室では絶対に起こり得ない設定でもいいわけです。でもこういうことを韓国の教室でやるのは違和感がありますよね。

もちろん、設定の仕方によって「韓国に住んでいてもありえる」設定を作ることは可能です。でも、「学生にとって日常的にありそうな」場面を設定したとしても、そうそうそんな場面ないよ、というのがほとんどです。

ここが日本であれば、ある程度リアリティのある設定はできるでしょう。でも韓国に住んでいて日本語で急に話す必要性は日常的にあまりありません。「旅行客に日本語で道を聞かれました」みたいな設定なら「ありえる」ことはありえますが、死ぬまでに何回あるかというレベルですよね。

つまり海外における大人数での会話の授業は

一人ひとりの日本語の発話量を増やそうと思うと、どうしても「演じる」部分が必要になってきます。「韓国人同士で日本語で話す」ということ自体が演じることですし、設定に合わせて会話を展開させるのも演じることです。

私はこの「演じる」から逃れよう、逃れようと努力をしてきました。どうにかして私というネイティブスピーカーと話す時間を増やすか、という部分を考えてきたんです。だから会話の授業では私はほとんど休む時間がなく、2,3時間の授業が終わったらヘトヘトになっていました。

それはしょうがない、と長い間思っていたんですが、その考えも最近はだいぶ変わってきました。「演じる」しかないなら、とことん演じよう、というものですね。もう、「自然な」場面を想定して…みたいな設定はやめることにしました(またやるかもしれないけど)。

それを踏まえた上で、次にやろうと思っている授業について別エントリーで書いてみようと思います。

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