レビュー『日本語教のすすめ』

投稿者: | 2018年2月13日

言語学者、鈴木孝夫先生の アンソロジー的小論集です。雑誌に掲載されたものを集めて再編集したものらしいです。もちろん 一般書なので、専門的な内容も噛み砕かれ、読みやすく書かれています。出版は2009年で、もう10年近く前のものなんですが、なかなか面白かったので記録を残しておきます。

様々な話題

本書の最終的な結論は、「日本語を世界に広めましょう」というものです。ですが、その最終章に至るまでの4章が、その結論に至るための布石にはなっているわけではないようです。最終章は新書にまとめるときに書き足したのでしょう。前の4章は日本語の特質や特徴を他の言語との比較で面白く論じています。

第1章 日本語は誤解されている

ここでは世界の言語に占める日本語の位置付け的なものが述べられています。その中で、日本語の特徴である漢字の使用についても述べられていて、欧米の言語をラジオ型言語と呼び日本語をテレビ型言語と呼んでいます。

これは欧米の言語が音声面に特化しているのに対し、日本語は音声面が貧弱な反面表記が進んでおり、視覚と聴覚の両方を総動員して理解する言語だということです。日本語にはそもそも音が少ないですが、それを補うのが漢字の存在です。

これに近いことはは養老孟司先生も日本の漫画論か何かで論じていました。漫画というのは絵と文字 同時に理解していかなければなりません。日本人が漫画を上手に読めるのは漢字文化を持つからです。漢字というのは 表音的な部分と表意的な部分を併せ持っており、日頃からこれに接しているから、絵と文字を同時に理解する必要のある漫画をスイスイと読めるということです(うろ覚えです)。一方、そのような言語文化を持たない人たちの中には、漫画がうまく読めない人もいるそうです

第2章 言語が違えば文化も変わる

「虹にはいくつの色があるのか」というところから話が始まっています。日本人にとってみれば虹は7色というのは当たり前のことですが、6色であるとか5色であるとかそのような認識を持っている人たちもいるということですまた、太陽の色、 りんごの色、日本でも時々問題になる青と緑の違いなどについて社会学言語学的な解釈をしています。

こういったところから導き出せるのは、言語や文化が違えば同じものを見ていてもそのものに対する区切りというのは変わってくるということでしょう。

よく言う話では、エスキモーの人などは雪を表す言葉が30種類以上あるとかそういったことでしょう。我々は雪としか表現しないものをさらに細分化して表現しているということです。また日本語では牛をメスかオスかで区別することはあまりありませんが英語にはそういう区別もありますよね。

しかしこの第2章のタイトル「言語が違えば文化も変わる」というのはどうにも同意しかねます。一見それらしいのですが、言語が違うから文化が変わるんではなくて、文化が違うから言語が変わるのではないでしょうか。まあ、大家のつけたタイトルにそんなことを言ってもしょうがないので、これは小声で言っておきます。

第3章 言葉に秘められた奥深い世界

これも第2章の続きのようなテーマです。英語のHighとTallは「高い」と日本語で翻訳されますが、それには縦と横の比率が問題であるとか、日本語の「寒い」と「冷たい」はどういう違いがあるのかとか。

第4章 日本語に人称代名詞は存在しない

この章は大きく二つに分かれます。まずは身内の呼び方の部分です。

これは金田一春彦の『日本語』でも同じようなことが指摘されていましたので、ある程度言語学 や日本語学を学んだ人間にとっては当たり前のことです。自分の上位者に対してはその役割を表す語、例えば「お父さん」とか「課長」とかそういうような呼び方をしますが、一方下位者に対しては役割を表す語で呼ぶことはできず名前で呼ぶことしかできない、といったようなことです。

私が最も面白く読んだところは後半の「人称の本質は何か」という議論です。一人称は「私」、二人称は「あなた」、三人称は「彼」というのが人称代名詞に日本語を当てはめた時の常識的な理解ですが、著者はこういう枠組みが日本語には当てはまらない、ということを主張します。

例えば英語を例にとると、一人称では「I」、二人称では「You」を使います。これは話し手が「I」であり、その聞き手が「You」であるということをマークしているということです。しかし日本語の「私」と「あなた」はこれには当てはまりません。なぜならば、まず 相手によって話し手である「自分」を何と呼ぶかが変わってくるからです。当然ですよね。「私」と言ったり「俺」と言ったり「僕」と言ったり「わし」と言ったりします。決して「話し手」をマークするだけのものではありません。それが「あなた」にも当てはまることはすぐに分かるでしょう。

著者は英語のような言語を「テニス型」、そして日本語を「スカッシュ型」と呼んでいます。

テニスは球の打ち手と受け手がくるくる変わります。会話でのIとYouもくるくる変わります。しかし日本語は「スカッシュ型」です。

話し手の言葉はまず一度壁に当てられ、それが反射して相手のほうに流れていくわけです。ですからこのときの相手は本来の二人称としての相手ではなく、すでに他者つまり三人称なのです。(p 181)

こういったことから著者は日本人は議論が下手だというような議論に持ち込むのですが、まあそれはともかく面白い指摘だと思いました。そして最後にまとめているのですが、日本語は

強いて人称代名詞という用語を用いるならば、日本語では〈私〉や〈俺〉も含めて全てが三人称だと言うしかありません。(p212)

この指摘には 全く同意します。 詳しい議論は本書をご覧ください。

第5章  日本語に対する考えを改めよう

最終章です。

過去の日本における外国語教育というのは、外国の優れた科学技術や産物を受け入れるためのものでした。遣唐使なんかを考えるとすぐにお分かりかと思います。ですから日本人の外国語学習といえば オーラルコミュニケーションの方ではなくて、本を読むことであったはずです。だからそもそも外国人と会話をしたり、やり取りをするような勉強法を採用していなかったわけです。

そのことが現在の日本人の世界における評価である「交渉下手」「議論下手」とかそのようなことにつながっていると著者は言っています。

この点には私も本当に同意します。私も英語を勉強していますが 、やっぱりその主眼は自分のためになるものを取り入れようとすることからきていますから。過去の日本人とまったく同じメンタリティですね。

しかし著者はこれからはこれではダメだと言うのですね。大国になった日本はこれからは発信をしていかなければならない。
発信するには受信者が必要です。日本語で発信したからには受信者は日本語を理解できる必要があります。だから日本語をもっと広めなければならないということなんですね。

私も日本語を飯のタネにしている一人ですからこの主張に反対する道理はありません。世界のみんなが日本語を理解してくれればどれだけ楽でしょうか!

一般書ですが、私のようにそれなりに長く日本語に携わっている人間にも大きな学びがありました。非常に読み甲斐のある良書だと思います。

言語や外国語に関わる学問、仕事をしようという人は一度読んでおくべきでしょう。

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