カルチャーマップから考える日本語教育 その4 リード

投稿者: | 2020年6月25日

さあ、その4まで来ました!ここで考えることは、

リード
平等主義〜階層主義

この『異文化理解力』という本は、主にビジネス現場での適用を念頭に書かれています。そしてこの部分で書かれていることを簡単に言うと、上下関係がどのようなものかということですね。

フランクな上司が好まれるか、威厳がありちょっと近づきがたいような上司が好まれるか、仕事上の階層による垣根が高いものなのか、低いものなのかといったことでしょうか。

例えば、おもしろいのは自転車通勤の話ですね。ある国では自転車通勤をする上司は「フランクで近寄りやすく庶民的」ということで高評価を受けるのに対し、ある国では「上司にそのような庶民的な行動をされると恥ずかしい」「威厳を持ってもらいたい」というような負の評価を受けるということです。

これは私も聞いたことがあります。韓国の大学の話ですが、ある日本人の教員が休み時間に短パンにTシャツという格好で学生とキャッチボールをしていたそうです。それで上司の韓国人教員に叱責を受けたそうです。大学の教員がそんな格好で学生と遊んでどうする、と。他にも、ある同僚が中古車を買いに行った時、軽の車を選びそうになったら「大学の先生がそんな車乗ったらだめですよ」と言われたとか。

やはりアジアの国では「先生」とか「教授」とかになると、社会的に「それらしさ」を求められるというのがありそうです。

しかし、実際どうでしょうか?外国語の「先生」と「学生」という関係だけ見れば、どの国へ行っても権威主義的な人より、フランクな人の方が授業はうまくできると思います。例えば、先ほどの「教授としての体面」を気にする韓国でも、新たな外国語教員を採用するにあたって、事務方に「望ましい教員像」を聞いてみたところ、

若い人

という答えが返ってきました。若い先生の方が学生からの評価も高くなりがちだということでした。もちろん「若ければいいってもんじゃない」のは確かですが、傾向として若いほうが柔軟でフランクで、同じく若い学生のニーズを汲み取りやすい、という部分があるのは否めないと思います。もちろん若くなくても評価の高い先生もたくさんいるでしょうが、採用の段階ではその辺りはよくわかりませんから、事務方が「若い人がほしい」というのもある程度は理解できます

だから、おそらくこの項目において、先生⇔学習者の関係についてのみ言えば、おそらくどの国でも「フランクで平等主義的な先生」が望ましいと考えられるとは思います。

日本、また一番右!

p113

コミュニケーション、負のフィードバックに続き、またこの項目でも日本は一番右に来ています。先ほど例に出した韓国も同じですね。北欧の方は平等主義で、西ヨーロッパやアメリカは中間に位置しています。ロシアやポーランドのような国々が階層主義的、というのは理解しやすいですよね。しかしとにかくアジアは押し並べて階層主義的なようです。

この表を見る前に日本がどの辺りに位置するだろうか考えてみたんですが、その時は「日本は真ん中くらいか?」と思ったりしました。しかし最も右なんですね。私の認識の甘さがよくわかりました。日本の社会は私が思っていたよりもはるかに階層的なんですね。

でも、よく考えるとわかる気がします。私は折に触れて公言していることが一つあります。私が最も嫌いな種類の人は誰かに対する答えなんですが、それは

偉そうなおじさん。

そう、私は偉そうなおじさんが一番キライなんです(その次は偉そうなおばさんですけどね)。韓国では大学にいたので偉そうなおじさんが山盛りで大変でした。今は嬉しいことに、偉そうなおじさんに会うことはあまりありません。むしろ自分が偉そうなおじさんにならないように気をつけているくらいです。

おそらくこの日本語教育業界は偉そうなおじさんがいたとしても、それに遭遇する確率って他業種に比べれば低いんじゃないでしょうか。偉そうなおばさんもいるにはいますけど、おじさんに比べれば攻略が容易です。

階層主義の文化圏では…

さきほど話したように、授業場面での教師はどこでも階層主義的、権威的でないほうが良いでしょう。だいたいネイティブの日本語の先生は会話の授業とか作文の授業とか持つことが多いと思いますが、階層的、権威的で授業が円滑に進むということはあまりなさそうです。むしろフランクに接して心を開いてもらわないといけませんからね。

しかし、関係性の上ではそうだとしてもそれぞれの文化圏には「先生はこういうもの」という漠然としたイメージがあり、それが学習者が想定する授業の内容にも反映されることはあると思います。

例えば、上の表で右に位置する国々では、教育が上からの詰め込み式になっていることが多いのではないでしょうか。つまり「上」の立場にいる先生が、「下」にいる学生・生徒に知識や技術を伝える、という授業方式です。もし、そういう方式に慣れている学習者が相手の場合、授業とは「先生が学生に教えるもの」という考えが強いので授業での姿勢も受け身になりがちです。

例えば、以前私は「自律学習授業」というのをやったことがあります。授業時間中に「じゃあ、好き勝手勉強してください」という時間を与えました。先生は何をするかといえば自習している学習者の周りを巡回するだけです。時として学習者からの質問に答えたり、アドバイスをしたりもしますが、何も教えないといえば教えません。そう言えばここ何年か前からは「教えない教え方」なんていう言葉も目にする機会が増えましたよね。


では、階層主義的な国で、上意下達の授業スタイルに慣れている国では、そのような「自律学習的授業」やら「教えない教え方」のような方法をとることは辞めたほうがよいのでしょうか。私の考えは…

より丁寧に慎重におこなうべし!

「自律学習」やら「教えない教え方」を授業に取り入れたい、と少しでも考えた人は、おそらくそれが学習者にとって良いことだろうとか、学習目的やクラスの目的と合致すると考えたからではないでしょうか。だったらそれを辞める必要はないと思います。しかし、その説明をしっかりおこなうことが大切ではないでしょうか

なぜ、この授業で「自律学習」「教えない教え方」を取り入れるのか、こういうやり方の狙いはどこにあるのか、どういうことを期待しているのか。そのような説明を丁寧におこなえば、きっと理解してくれるはずです。

おそらく右の方に位置する国の学習者は学習に対する自律性も比較的低いと思われますが、自律性は練習によって身につくという研究結果もあります。

自律性は育てられる(むらログ)

外国語学習は長い冒険ですので、多かれ少なかれ自律性を身につけてもらわないと成功しづらい面がありますしね。

教師の役割

反対に左の方に位置する国では、教師主導すぎる授業活動は飽きられてしまう恐れがありますね。

しかし、自主性や自律性を重んじすぎることには教育シーンではある意味弊害もあると考えます。これは教育シーンだけではなくて、生活面全般において思うことですけど、人は自分が考える範囲の中でしか考えられないということです。

新しい価値観や概念を紹介する、というのも教師の大事な仕事です。もちろんその新しい価値観や概念がその学習者に受け入れられるかどうかはまた別の問題ですけど、それを提示することは怠ってはいけません。

例えば、世の中にはシャドーイングという学習方法を知らない人がいます。それを知らない人は、当然ですが、シャドーイング練習をすることができません。それを教えてシャドーイングを自律学習に取り入れるかどうかは学習者の問題ですが、紹介するのは教師の役割です。

ちなみに私は、この部分では徹底しています。例えば飲食店に行った時、ほとんどメニュー表を見ません。だいたい一緒に行った人と同じものを注文します。それは、食べ物を自分で選んでしまうと、自分で選んだ食べ物しか食べられないからです(優柔不断の言い訳)。

妻と外食をするときはほぼ丸投げです。そうすると、絶対自分では選ばないような食べ物が出てくるのです。それによって、私の世界が広がるような気がしています。

グループ分け

あと、これらの階層主義的か平等主義的かの差は、学習者同士の関係にもかなり影響を与えますよね。例えば日本語教育場面においては「グループ活動」もよくおこなうことでしょう。

表の右に位置するような国では、このグループ分けを慎重におこなう必要があります。例えば、年齢差が人間関係に決定的に影響を与えるような文化圏では、グループに一人先輩が混じっている、というだけでグループ活動が円滑に進まないということもあるでしょう。意見をぶつけ合うような活動などをおこなう場合は、特にそのグループ分けに慎重になる必要があると思います。

社会生活

私はどちらかというと、偉そうなおじさんを憎んでいるくらいなので平等主義的な方を志向していますが、時によってはその国の慣例に従ったほうがいろいろな事柄がスムーズに進行するという場合もあります。

例えば、学習者との関係ではなく、その他の人々との関係においてはその文化の雰囲気に合わせたほうがいい場面も出てきます。

時としてはったりを利かせる必要もあります。じゃないと「偉そうなおじさん」に値踏みされたり、ズケズケと入ってこられることもありますからね。とにかくあまり親しくない人と会う場合や、集まりに行く場合にはその辺りは慎重にいってもいいかもしれません。

以前釜山にいる頃、なぜかわかりませんが、文学祭のゲストスピーカーとして呼ばれたことがあります。テーマが「日本語」とか「教育」であればわかるんですが、その時のテーマは「神話」でした。

主催者は、「日本人の大学関係者なら誰でも良し」くらいで私を呼んだのだと思います。そこで結果として「日本の神話」について30分くらい講義をしました。あり得ないですよね。ネットで検索し、本を日本から取り寄せて、付け焼き刃で講演をおこなったんですが、割と好評だったような気がします。おそらく聴衆は私のことを「日本神話の研究者」と思ったことでしょう。

そこではやはり「それらしい顔」をしている必要があります。別に「よくわかりませんけど…」という枕詞をつける必要はないのです。

あとは、職場での人間関係ですよね。もし上司が上司らしく威厳を持つことが期待されるような文化圏の人と接する時は、やはりある程度距離をとったほうがいい場合もあります。自分で自分のことを「フランクな人間だ」と思っていても、その人の立場が上だったりすると、そのフランクさが負担になることもあります

まとめ

以上、上下関係、階層主義、平等主義について見てきました。

本書には以下のような部分があります。

中国から韓国や日本を含め東アジアの社会では、リーダーシップに対して家父長的な見方を持っていて、それが西洋人たちを困惑させている。(p.119)

西洋の影響もあって、アジア諸国は政治的にも、ビジネス的にも、日常生活的にも限定された役割から徐々に決別しつつあるが、いまだに多くのアジア人が階層的にものを考えることに慣れている。彼らは階層や地位の違いに西洋人よりもはるかに注意を払う傾向にある。(p.119)

これらの記述からわかることは、私たちアジア圏の人間は欧州やその他の地域からみるとかなり特殊ということですね。あちらが「困惑」するのであれば、こちらも「困惑」することは間違いないでしょう。

アジア圏以外で仕事をする場合、またはそういった地域から来る学習者などを相手にする場合にはこういった違いを常に意識しておきたいものです。

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カルチャーマップから考える日本語教育 その5 決断

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