■カルチャーマップから考える日本語教育 その0
■カルチャーマップから考える日本語教育 その1
■カルチャーマップから考える日本語教育 その2
■カルチャーマップから考える日本語教育 その3
■カルチャーマップから考える日本語教育 その4
■カルチャーマップから考える日本語教育 その5
■カルチャーマップから考える日本語教育 その6
■カルチャーマップから考える日本語教育 その7
さて、今回がカルチャーマップ最後の指標になります。
スケジューリング
ということですが、ある文化が時間の概念をどのように捉えているか、ということです。本書では、
直接的な時間〜柔軟な時間
という言葉で対応を表しています。簡単に言うと、前者は時間管理がタイトで、後者はルーズということですね。本書ではこういった例が上げられています。
ミーティングは10時から始まります。あなたは今その場所に向かっていますが、到着は10時5分くらいになりそうです。さて、あなたはミーティング相手に「5分遅れる」という連絡を入れますか。
もちろん、その相手との力関係や自分の立ち位置にもよると思いますが、私は日本人とのミーティングであれば、一言入れると思います。「すみません、5分ほど遅れます」と。ということはやはり日本は「直線的な時間」の方だと推測できますが、その他の国々はどうでしょうか。
社会のあり方と時間概念
やはり日本は端っこの方にいましたね。しかしドイツやスイスなどは輪をかけて時間に厳しいんですね。しかし概観してみますと、今までにないくらいバラけていますね。日本と中国は地理的には近いですがほぼ正反対に位置づけられていますしね。東南アジアはやはり柔軟な方に入るでしょうね。
中国やインドが右寄りというのはイメージどおりですね。もう20年以上前の話ですが、中国を旅行したことがあります。1998年です。学生の貧乏旅行だったのでバスや鉄道を駆使して3週間ほど中国を回りました。ある時厦門から桂林に寝台バスで行こうとした時のことです。
その時、バスターミナル(というほど大層なものでもないけど)でずっと待っていたんですけど、なかなかバスが来ません。家族経営っぽいバス会社?の人たちに聞くと「ちょっと遅れる」とか言うんですね。で、待つんですけどやっぱ全然来ない。日も暮れてきて、その家族たちは夕食を食べ始めます。「お前も食べていけ」と言われ、夕食をごちそうになります。で、その後も待つんですけど、最終的に「今日は来ない。宿を紹介してやるからまた明日来い」と言われてしまいました。
結局翌日、当初の出発時刻から24時間以上の遅れで、バスは出発しました。私などは学生の旅行者ですから別に一日くらい遅れても問題ないんですけど、乗客は他にも大勢いました。その中国人もずっと座ってバスを待っているんです。で、24時間以上遅れても誰も文句を言わないんですよ。それが非常に印象に残っています。
他の社会では-特に途上国では-日々の生活が絶え間ない変化を前提に回っている。政治システムが変わり金融システムが変更されるように、交通量の増減も激しく、モンスーンや水不足で予測不可能な難題が生じる(p231)
こういったことが時間概念に影響を与えるであろうことは容易に想像できますね。私の今いるカンボジアでもそうですね。約束をしても、ちょうどその時間に到着するように移動する、というのは非常に難しいです。
一方の日本などは命を賭けて時間を守っていますからね。例えば、電車ですね。以前伊集院光がラジオでこんな話をしていました。
新幹線に何らかのトラブルがあって、到着が数分遅れそうになった。しかし結局挽回をして、最終的には時間通りに終着駅についたそうです。そして車掌が車内放送で最後に言ったのは、
「本日は、遅れそうになりまして申し訳ありませんでした。」
世界広しと言えども「遅れそうになってすまん(遅れなかったけど)」という国はあんまりないんじゃないかと思います。
しかしこれが実現できるというのはやはり高度な社会的インフラができているからですよね。もちろん民族性とか国民性も影響してくるとは思います。ドイツなども時間に厳しいということで有名だそうですが、在住者に聞くところによると、移民を大量に受け入れるようになってからだいぶルーズになってきたとのことです(聞いた話です)。
時間にだらしないわけではない
同じ日本人でも個人差はあるでしょう。時間に厳しい人もいれば緩い人もいますね。例えば以前#日本語教師ブッククラブで読んだ『なまけもの時間術』の著者西村氏なんかはかなり緩い部類ですね。約束に遅れるのは当たり前らしいですから。
で、西村氏はその本の中で「なぜ私は遅れるか」を滔々と述べているんですね。私はこの本は非常におもしろいと思いましたし、学ぶ点も多いと思いましたが、この「時間にルーズである」という点だけはどうも納得できませんでした。しかし、本書を読むと西川氏の考えがちょっとわかるんですね。
人間関係が大事なら、時間を脇においてもそれを優先するものである。そのため人間関係の構築を最重要視する文化が、いくつかの例外を除き、スケジューリングの指標において「柔軟な時間」の側に位置するのは当然といえる。(p232)
つまり、西村氏は右側の文化圏に属する人なんですね。そして右側の文化圏に属する人はただ時間管理がルーズでいつも時間に遅れる、というわけではなくて「時間を分単位で守るよりも重要視することがある」んですね。
ちなみに西村氏はフランスに住んでいるそうです。フランスは日本に比べるとかなり右側に位置しています。もしかして、そういったところも関係しているのかもしれませんね。
時間管理の格言
で、では我々は日本語教育に携わるものとしてどう時間管理に立ち向かうか、ということです。
まずパッと思いつくのは授業の開始時間です。私は以前韓国の大学に勤務していましたが、その時ある学生に「日本人の先生は違うね、ちゃんと時間前に来て準備して時間になったら授業が始まる」と言われたことがあります。肯定的な意味です。韓国は上の表には出ていませんが、日本に比べるとかなり柔軟な方でしょう。今はだいぶ変わって来たと思いましたが、以前はコリアンタイムなんて言葉がありました。
でも私は、柔軟な国でも時間になったら授業をはじめるべきだと考えます。なぜならば普通、終わりの時間が決まっているからです。授業を遅くはじめるということは、終わりの時間が決まっている以上、授業時間(=学びの時間)が短くなるということを意味します(授業が延長されることが既定事項の場所ではこの限りではないでしょう)。
私は教師の仕事は「学生の学びが最大限になるように努力すること」だと考えています。だからこそ、授業の時間が決まっているならその時間内で最大の努力を払うべきだと思います。ただ、もし学生の方から「先生、他の学生を待ちましょう」とか雑談的なものを持ちかけてきたら、それに応じるとは思いますけどね。
■(ミクロな意味で)「教育の受益者は学習者本人である」という話
ですから、私は遅れてきた学生を叱責するようなことは絶対にしません。むしろ、「遅れてでもよく来た」と言います。以前聞いた話、これも韓国の話ですが、ある厳しい民間の英語塾のネイティブ講師は、時間になったら教室に鍵をかけて入れないようにするということでした。
もちろんそうすることによって学生が授業に遅れないようになれば、学びも促進するかもしれませんが、これはちょっと極端なような気がしました。まあ民間の塾という点で、その方針に同意しなければ通わなければいいだけですからいいとは思いますが、韓国人の時間に対する柔軟性を考えた場合には、ちょっと疑問符がつくやり方だと思いました。
話は戻ります。
授業シーン以外でも同僚との打ち合わせ、外部との会議などさまざまな場合があると思うのですが、どこでも大体通用しそうだな、と思う格言を一つ書いておきます。それは、
自分に厳しく他人に寛容に
これで大体のことは乗り切れるような気がします。私は、かなり時間を守る方だと自負しています。もちろん事の重要性にもよりますが、仕事関連で遅れることはあまりないです。ですが、他人にはあまり期待しません。これは海外生活で養われるような気がします。大体の国は日本より右側ですから。
あとはあれですね、約束をする時、幅を持った約束の仕方をすることもよくやります。「3時に会いましょう」ではなく、「3時を目標に来てください」とか「3時を目標に行きます」という言い回しを私はよく使います。
前述したとおり、カンボジア、プノンペンではなかなか時間ちょうどに着く、ということは難しいです。遅れないように行こうと思えば約束時間よりかなり早く着いてしまうこともありますし、逆に予想外の渋滞にはまって遅く着いてしまうこともあります。
まあ、在住者はその辺理解していますので特に問題は起きないと思いますが。
あと、仕事とは関係ないですけど、子どもを連れて約束する場合ですよね。ほんとその時は幅を持って約束を履行してほしいと思いますよね。寝ている子どもを叩き起こしてまで時間に来なくていいですよね。
まとめ
というわけで時間管理について見てきました。やはり時間の概念はその文化に分け入らないとわからない部分がありますね。
例えばカンボジアで結婚式に招待されたんですが、案内状には「5時から」と書いていました。しかし「7時くらいに行けばよい」という注釈も人づてに聞きました。そんなのは絶対に予想できませんよね。
大事なのはやはりわからないことは「聞く」ということでしょうか。
スケジューリングのシステムについて事前にしっかりと話し合いを持てば、やがて生じる不満を和らげることができる。(p246)
そして、また慣れないことはしない、ということですね。これは国際社会でうまく立ち回るための一つの指針でもあります。
キャリアを通してもっと文化的に柔軟になろうと務めてきたが、私が学んだのは、相手のスタイルを真似ようとすると、最初の試みの五回に三回は失敗するということだった。(p240)
世界が同じ時計を使っている、というのは非常にありがたいことです。でも私たちが忘れてはいけないことは下の言葉に集約されています。
腕につけた時計を見ていても、個人の時間の感じ方は文化によって大きく異なる。(p230)
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