サイレント・マジョリティを意識して評価に接する

投稿者: | 2020年8月18日

授業をしたり、セミナーをやったりすると最後に「評価」するシーンがありますよね。学生からの講義評価、受講者からのセミナーの評価。人によっては寿命が短くなるくらいそれを見るのが嫌な人もいるみたいです。今日はその評価について考えてみたいと思います。

「評価」の2つの意味

評価にはいろいろな側面があると思いますが、授業やセミナーに対する評価においてもっとも核心的で必要な意味は、自分(たち)がやったことを相手はどう感じたのかを知ることにより、

今後の改善・発展につなげる

というところでしょう。例えば「つまらなかった」という評価を受けたら、「つまらなくなくするためにはどうすれば良いだろうか?」と改善策を考えますし、反対に「とても良かった」という評価を受けたら「このやり方を次はもっとブラッシュアップしてみよう」と思うわけです。

もう一つ評価の使い所があるとしたら、

査定につなげる

ということでしょうか。例えば学校組織でしたら、事務方がお抱えの教師に対する授業評価結果を分析することによって、「どの教師が学生に評価されているのか(いないのか)」「実力があるのか(ないのか」)を知ることができます。

おそらく評価をする意味は大きくこの2つに分けられると思います。だから何から学習者や参加者に評価をしてもらおうとする場合にはどちらを意図しているのかをしっかり把握して、その目的にあった方法でシステムを作ることが必要になります(別に評価にはその2つの意図両方が入っている必要があるという意味ではありません)。

今回は組織による「査定」の部分はおいておいて、「今後の改善・発展につなげる」ことを意図した評価についてと、その周辺のいくつかのこと、最近考えることを書いていこうと思います。

論外な評価

まず、私が前にいた大学の評価システムは今考えるとダメダメでした。学期が終わると学生は自分たちが受けた授業について評価をするわけですが、私たち教員に返ってくる学生からのフィードバックは「満足度が10点中何点だったか」という数字だけでした。

もちろん実際の質問は「シラバス通りに授業は進んだか」とか、「情熱的に授業をおこなったか」のようないくつもの下位項目に分かれているんですが、結局最後に意味を持つ点数はすべての質問項目を10点満点で評価したものの平均点でした(質問自体もつまらないものですが、それはここでは議論しません)。

この数字は教員の処遇に大きく影響を与えるものでしたので、我々教員はこの数字を高めることに尽力するわけですが、結果として出てくるのは数字だけなんです。どうやって「今後の改善や発展につなげる」ことができるでしょうか。わかるのは、自分の評価点が全教員中何位か、上位何%に入っているかということだけです。

点数で出せば一列に並べることができますので、教員に対する査定としては扱いやすいかもしれません。でも、教員としてはどこかまずかったのか、どこか評価されたのかがわからないので、点数を見て「喜ぶ」か「悲しむ」かしかできないのです。

しかし、そのような評価システムは例外的なものかもしれません。普通はその数字に対する理由、根拠を書く欄があったりしますよね。

「授業の進度が速い」「いつも遅刻してくる」「説明が少ない」「試験が難しすぎる」などなど。

そういう根拠が書いてあれば、教員としてはまだ希望があると言えます。「授業の進度が速い」という意見が多ければ「ちょっとゆっくりやろう」と改善することができるわけです。

サイレント・マジョリティ

そういうフィードバックに一喜一憂するのが人間というものですが、一つ考えておかないといけないことがあります。それは、

言われていることは妥当なのか

ということです。もちろんそのフィードバック自体はその学生なりの真実でありましょう。でも「授業の進度が速すぎる」というたった一人のフィードバックを見て「じゃあ、次からは授業はゆっくり進めよう」と考えてもいいものでしょうか。

そこで出てくるのが「サイレント マジョリティ」という概念です。この語のもともとの出どころはアメリカの大統領が大衆の意見を云々というところらしいのですが、それについてはここでは触れません。大事なのは、「サイレント マジョリティ」=「モノ言わぬ多数派」ということで、意見を出すのはごくごく限られた人々であるということです。

最近、島崎敢(2016)『心配学~「本当の確率」となぜずれる?~』光文社新書という本を読んだのですが、その中にこの概念が出てきました。図も引用しておきます。

(Kindle の位置No.342)

これ↑はある製品に対しての評価者の人数と満足度の関係のあり方、「絶賛する人」と「クレーマー」の位置づけをあくまでも図式としてわかりやすく示したものです。これを見れば「サイレント マジョリティ」の意味は理解できることでしょう。

これはよく考えれば当然です。とても感動したものや、怒りを覚えたものに対しては何か一言言いたくなりますよね。逆に「可もなく不可もなく」というモノゴトに対しては敢えて意見を言う必要はありません。

私がよく感じるのはAMAZONのレビューですね。どの商品にも高評価と低評価が大体ついています。そして私もアマゾンのヘビーユーザーの一人ですが、ほとんどレビューを書くことはありません。まさに私が「もの言わぬ大衆」です。

もちろん授業に対する評価と製品に対する評価を同一視することはできません。製品に関しては一部のクレーマーは切り捨てても構わないかもしれませんが、教育現場では「クレーマー」だとしてもその学生が満足していないのは確かですから、かんたんに切り捨てることはできないかもしれません。教育にも効率性という概念は必要ですが、経済活動における効率性とはまた違うものである必要があります。

でも、「評価」の構造としては「製品・サービス」も「教育」も同じなのではないでしょうか。クレーマー的学生に引っ張られて、大多数の学生が肯定的に評価しているものにテコ入れをおこなうことはひょっとしたら全体の利益を損ねてしまうかもしれません。私たちがAMAZONで製品や本を物色するときも高評価と低評価のフィードバックをよく噛みしめた上で、これは購入に値するのだろうか、と熟考するのと同じです。

つまり私たちが見極めて涵養しなければならないのは、その意見やフィードバックが本当に妥当なものなのか、サイレントマジョリティはどう考えているのかを推測する力です。

記名制を増やさないかい?

そこで私が最近思うのは授業やセミナーに対する評価は記名制が良いのではないか?ということです。

普通こういったアンケート調査は「忌憚ない意見を集める」ということで無記名にすることが多いでしょう。でも記名制にした方が遥かに得られるものが多いと思うんですよね(評価される側は)。

例えば、「授業の進度が速い」というフィードバックがあったとします。その学生が「毎日一番前の真ん中の席に座り予習復習を欠かさない模範的な学生」によるものなのか、「授業にもろくに参加せず、来てもいつも漫画を読んでいる学生」によるものなのかによってそのフィードバックの価値は大きく変わります。

逆も同じです。「先生の授業は素晴らしいです」と評価した学生が「毎日ストーカーまがいにメッセージを送ってくるファン」なのか、はたまた「いつも後ろに座って発言もせず、何をかんがえているのだかわからない学生」なのかがわかればその価値や意味が変わります。

セミナーなんかでも「その分野に超詳しい先生」からのフィードバックと「冷やかしで参加した学生」からのフィードバックでは価値が違います。

またその他の記名制の利点は「責任を持ってフィードバックを書いてくれる」ということでしょう。匿名にするとたまにとんでもなく失礼なことを書いてくる人がいますが、こういうこともある程度は回避できます。

経験として、否定的なフィードバックをする人は記名制にしても結構書いてきます。否定的なフィードバックやクリティカルな意見を出すのが知性の証だと思っている人は少なくないですから、そういう人たちにとってはむしろ知性の証をしたものには記名をしたいという側面があるのかもしれません。

とにかくそのフィードバックが的を得たものにせよ、そうでないにせよ、ちゃんと自分の名前を書いて訴えてくるのですから、その意見は耳を傾けるに値する可能性が高まりますよね。

匿名でも許される記名制

もちろん記名制にすると「忌憚のない意見が言えない」人もいるでしょうが、それについては私も考えがあります。

匿名でないと言えないようなことは言わなくてもいい

ということ。しかしこれは原理的すぎるかな、とも思います。実際問題として大学の学生がゼミの教授などに記名しつつ負のフィードバックをすることは難しいでしょう。また純粋に授業内容に対する評価ではなく、「体を触ってくるのはやめてほしい」のような立場の弱い方からの叫びが吸い取りあげられなくなるのはあまり良いこととは言えません。

成熟した大人の集まりでしたら「匿名でないと言えないようなことは言うな」ということはあってもいいと思います。でも、記名制には次のような抜け道もあります。

記名制でも記名しなくてもいい。

記名制にしても記名するかどうかは本人の自由なわけです。だれもそのアンケートを提出するときに「あなた偽名書きましたね?」という人はいませんし、普通そこまでチェックしないでしょう。

前、セミナーをおこなったときはグーグルフォームでアンケートをとりました。「なまえ(書きたくない人は書かない)」という項目を立てたのですが、7割くらいの人は名前をかいてきたような気がします。

だから、私が言いたいのは「基本記名制にするが、記名しなくてもお咎めはない」というやり方でやるといいのではないか?ということです。そうすることによって立場の弱い人は忌憚のない意見も言えますし、自分の名前をかけてでも意見したい人は意見できます(肯定的でも否定的でも)。

そうすることによって、「サイレントマジョリティがどのように考えているか」を推測するという作業の手がかりが増えるということにもつながるのではないでしょうか。

数字による評価

あと、私は「点数による評価」についても否定的です。

最初に評価には2つの側面があり、「査定」的な意味合いとして使われることもあると書きましたが、数字がでないと評価できないような「査定者」は、少なくとも日本語教育分野においては失格だと思います。

数字を出して査定するのは、今風に言えば「エビデンスを示す」ということでしょう。その数字を比較することによって教員ごとのパフォーマンスを一列に並べてランク付けすることができますし、その数字を根拠として、「がんばった」「もう少し努力が必要」と教員に対しフィードバックができると考えがちです。

しかしね、普通ちゃんと付き合っていれば、その人のパフォーマンスはわかります。授業に入らなくても「この人の授業はすごそう」とか「ちょっと授業準備の方向性が間違っているのでは?」ということはわかるものです。授業に入ればさらにそれはよくわかるでしょう。それは「私はそのくらいわかりますよ」ということではなくて、「査定する立場の人間ならそれくらいわからないといけない」ということでもあり、逆に言うと「それをできない人が査定をしてはいけない」ということでもあります

また、「今後の改善・発展」という評価の側面に関しても、数字による評価はまったく意味ないと思います。だいたいその授業が全体としてうまく行ったとか、失敗したとかいうのは授業をする人なら普通わかります。わざわざあなたの授業は何点でした、と言ってもらわなくてもわからないといけません。

もちろん言わないとわからない人もいるとは思いますが、数字で言われても内実はよくわかりません。それに、もっと大事なことは、そもそも数字で言われないとわからない人は数字で言われてもわからないということです。

昔むかし勤めていた民間の日本語学校では、「再受講率」というのがあって、当該月の自分の受け持ちの学生のうち何%の学生が翌月もお金を払って登録したか、というのを教員の評価にしていました。その評価方法も問題があるとは思っていましたが、「あなたの授業評価は何点です」という評価よりも、遥かにすがすがしい評価の方法じゃないかなとも思います。だって、その日本語学校は営利を追求するのが目的なんですから、それに貢献した教師を肯定的に査定するという方向性は間違っていないわけですから。

まとめ

すみません、また話が横にそれていきましたが、大事なのは評価をされたあとでそれを自分でどう咀嚼するか、ということですね。

良い評価を受けると嬉しいし、悪い評価を受けると悲しいのは当然です。でも一通り喜んだり悲しんだあとは、とにかくそれは「極端な意見である」と考えて自分なりに「サイレントマジョリティ」の意見を推測するという作業が必要になってきます。

その過程で極端な意見の位置づけを考えていかなければなりません。無視しても良いときもあるでしょうし、それが多数派の意見を代表していることもあるでしょう。そのあたりの「修正する力」を伸ばしていきたいものです。

評価されるのは職業人として逃れられないものですから、少しでも評価されることを肯定的な機会として捉えたいものです。とにかく、一喜一憂することはあまり意味がない、ということを自己に対する戒めとしたいと常々考えています。

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