2つの素養

投稿者: | 2020年10月23日

だいぶ前の話で恐縮ですが、ホリエモンこと堀江貴文氏が、伝統的で「旧時代的」な寿司業界に対して一言物申すということがありました。

親方や先輩の技を目、手、体で盗みつつ、「飯炊き3年、握り8年」でやっと一人前の寿司職人になれる

という寿司業界の見解に対し、

アホか。メソッドに沿って、効率的に教えれば半年くらいでそこそこの寿司職人を養成できるわ

というのが堀江氏の主張でした。

私はこの話を聞いたときに、どちらも正しいような気がしたんですね。というのは「一人前」というのをどのレベルに持ってくるかということの違いから生まれる相違だと思ったからです

また、この問題がずっと気になっていて、時々どういう対立構造なんだろうかと考えたりしていました。この構造は何も寿司業界だけに限らないと思うんですね。もちろん日本語教育業界にも関わる議論だと思います。

今日はそれについてちょっと書いてみます。

2つの要素

先に結論を書いておきますと、

職業人としての素養には大きく2つの要素があり、その2つの要素を涵養することが職業人として成長につながる

と思うんですよね。その2つの要素は、なんと名付けたらいいかわかりませんが、とりあえず暫定的に「テクニカル素養」と「本質的素養」と名付けます。

テクニカル素養は、文字通りその職業を全うする上で必要な技術や能力のことです。寿司職人でしたら、いい魚を選んだり、魚をいい状態に保ったり、さばいたり、飯を炊いたり、寿司を握ったりする能力のことを言います。

日本語教師であれば、授業を目的に沿って遂行する能力や、学習者の目的にあった授業やコースをデザインする力でしょうか。つまり一般に日本語教師の力量、といわれるものですね。

一方、本質的素養とは、職業遂行の上での技術とは直接関係のない、知識や勘、経験など雑多なものを含んだ、「人間的な深み」のことです(「人間的な深み」というと陳腐な感じがしますが)。

なぜ本質的素養と呼ぶかというと、人間の営みや物事には何でも本質的な部分というのがあって、それは業界や分野を超えて普遍的なものとして存在しており、すぐれた職業人はその本質を掴む能力に長けているからです。

例えば、サッカープレイヤーと陶芸家はまったくジャンルの違う職業ですけど、一流の人々が話すことを聞くと、そこに通底する要素が入ってることに気付かされることがあります。

NHKの「プロフェッショナル」とかを見ていても、一流の人間は何かしら築き上げた独自の考え方があり、そういう話を聞いていると「この話はこの前の誰々の話と本質的には同じことを言っている」などと気付かされることがあります。

おそらく、寿司業界の考える一人前というのはそういうものを含んだ一人前なのではないか、と思うのです。

ですから、「テクニカル素養」だけ育てば一人前とする堀江氏と、「本質的素養」までも涵養されないと一人前とは言えないという寿司業界で議論がかみ合わないのは当然とも言えます。

本質的素養

日本語教師について考えると、テクニカル素養というのが日本語教師に最も求められる能力であると思われます。この素養が高い人は教育機関では人気講師になるし、ある時は三顧の礼を以て迎えられる人材ともなるでしょう。

これは,私たちがまず第一に涵養すべき素養ですし、普通日本語教師としての能力を高めるというときは、この能力を高めることを指します。

では、次に本質的素養とは具体的にはなにか、日本語教育的文脈ではどのようなことなのかを考えないといけません。

でも、まず誤解しないでほしいのは、これを高めることは「教育理念を持って、その教育論をとうとうと語ることができる」みたいなことではありません(そんなおじさんは私も嫌いです)。もっと内的で潜在的なことです。

例えば、最近『「教えない授業」の始め方』という本を読みましたが、こういう授業を構想する場合には、「明日の授業どうしようか」というテクニカルな方面とはまた別の能力が要求されるような気がします。というか、本質的素養がないと、「教えない授業」をやろうということすら思い浮かばないのではないでしょうか。

「教えない授業」を実施している学校の一コマを受け持っていて「その授業計画を立てる」という場合はテクニカル素養が要求されますが、「教えない授業を導入する」という場合には本質的素養が要求されるということです。

そもそも外国語教育とこの本質的素養とは縁の深いものです。第二言語習得理論などを勉強すると、さまざまなメソッドや教授法が出てきますが、そういうものはだいたい何らかの「理論」に基づいています。

わかりやすい例としてはオーディオリンガルメソッドでしょうか。このメソッドが行動心理学や構造主義を理論的基礎においているといえますが、こういうのが出てくる背景にはやはり教師や個人の人間や事物に対する理解力である本質的素養があるのではないでしょうか。

そこまで時代がかったものでなくても、昨今の一斉授業から自律学習への動き、横のつながりを重視した学びのスタイルなどは深い人間理解や状況への新解釈という「テクニカル素養ではカバーできない」概念想像力があるからこそ生まれでてくるのではないかと思います。

補正

じゃあ、問題は本質的素養を高めるにはどうすればいいか、ということですが、もちろん、職業経験を積むことで育っていく本質的素養もあると思います。特にスポーツ選手や芸術家などはその活動に没頭することで本質に達するという面が大きいと思います。

でも、教師の素養としては、直感としてはなにか別の活動から育っていく面も大きいと思うんですよね。人とコアに関わる仕事だからでしょうか。だから「異業種の人との交流は大事」とか「視野を広く持たなければならない」などと言われるではないでしょうか。

でもそれとは別に、ちょっと関係がありそうな個人的な出来事があるのでそれについて書きましょう。話半分で聞いてください。

私はあまりにも現実的なことばかり考えていると「補正」が必要になってくるんです。

どういうことか具体的に言うと、例えば「来月から始まる授業どうしようか」「次の支払いはどう切り抜けるか」「クメール語学習の段取りをどうするか」といった現実的なことに考えが集中していてくると、寝ているときに夢をよく見るようになります。

また、映画でも小説でも漫画でもフィクション的な作品を見たいという衝動が起こってくるんですね。一番フィットするのは村上春樹のようなメタファーで満たされたような作品です。

夢を見たり、そういう作品の鑑賞を望むのは、お腹の調子を整えるために草を食む犬のように本能的なもので、それを私は「精神的補正」と解釈しています。

現実的な問題を解決していくのを「テクニカル素養」が担当していると考えます。そこに偏りすぎると「精神的補正」が入り、「本質的素養」を要する活動をおこなう欲望がメキメキと現れると。つまり、私にとっては本質的素養を高める活動は、芸術作品の鑑賞なのではないかと推測しています。

これは人によって異なるのではないでしょうか。「現実的なこと=テクニカル素養を要する活動」に偏ると、皆さんはどのような補正が本能的に芽生えるでしょうか。もしかしたらそれは「気のおけない友人との長話し」かもしれませんし、「アルコールの摂取」かもしれませんし、「DIY」や「掃除」かもしれません。

本質の捕捉

と、ここまで読んで「アルコールの摂取」や「DIY」で日本語教師という職業人としての本質的素養が涵養されるってこと?おかしくない?と思った人いませんか。

私もおかしいと思ったのですが、その理由がわかりました。私が「本質的素養」としているのは、「多様な経験による本質の捕捉」なのではないかと思います。

何でも深いレベルでおこなっていると(つまり趣味とか)、その物事や活動の本質というものが見えてきます。「物事の本質」というものは「本質」というだけあって分野を超えます。これは先に言いましたね。

「アルコールの摂取」「DIY」「掃除」などでも高いレベルでやっていると、「本質」が見えてくるのではないでしょうか。

私の例で言いますと、文学作品や芸術作品を鑑賞していても、「うむ、これは日本語教育でいうところのあれと同じだな」「このときの主人公の心情は直接法の授業を受けているときの学生に酷似しているのではないか」などと、すぐに職業的なことに結びつけてしまうのです。

そして、そこまで考えて、一つある言葉とリンクしました。

今私が密かな楽しみにしているのはあるポッドキャストです。台湾の日本語教師のお二人がやっているもので、この界隈では有名な人たちですが、とてもおもしろいです。

台湾からこにゃにゃちは

その中で(うろ覚えですけど)、

人生楽しんでないやつの授業はおもしろくない

という話がありまして、一瞬同意できそうだけど、しかしどういう理屈なんだろうか、とちょっと考えていたんですね。

で、答えがこれです。人生楽しんでいろいろやっているやつは、物事の本質を捉える力が備わっている、それで本質的素養も涵養され、授業が知的でおもしろいものになると。

一応、私の中ではうまく着地できたような気がするのですがいかがでしょうか。

まとめ

以上、テクニカル素養と本質的素養について書きました。

この話の発端は、ある語学教育関連の文章を読んだことでした。その文章は事実関係を非常に的確に表現しており、読む人が読めば非常に価値の高い文章だと思ったんですが、何か硬的なものを感じました。

簡単に言うと、「行っていることは正しいんだが、何か物足りない」ということです。とくに粗もありませんし、理論的な欠陥も見当たりません。でも何か足りないんですよね。表層的な事実の伝達で終わっているんです。

それを考えると、それはやはりテクニカルな面だけで書いたような気がしたのです。それで、その何か足りない部分は本質的素養が欠けているからだと判断したのです。

このテクニカル素養と本質的素養は、ちょっと言葉がキャッチーでなくわかりにくい部分もありますが、日本語教育界の広がり方を見ていても理解できることです。

例えば、アカデミックな論文も2つに別れます。例えば「効果的なシャドーイング方法の実験、考察」などの論文があれば、それはバリバリの「テクニカル系」ですよね。一方、最近よくある「ライフストーリー」的論文などは「本質系」に属するものでしょう。

もちろん実際には截然と分けられないものも多いと思いますが、この2つの切り口を持っていると、何かを判断したり、理解する際の一つの観点として機能するかと思います。

最後に、最近↓の講演を聞いたのですが、私はここで33分くらいから話されている「意識」「存在」「つながり」という話は大いに語学教育と関連があるのではないと思いました。

河合隼雄 – 現代人と心の問題

具体的にはそれが、私達の授業遂行というテクニカルな面でどのように役立つかは、まだよくわかりませんが、こういうことを考えることを通して職業人としての素養も作られていくのではないかと思いました。

ちなみに講演の中で河合先生が言及しているのはこの本です↓。

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