先日ラジオを聞いていたら、ある人がおもしろいことを言っていました。
その人はある言語が話せるそうです。ここではフランス語としておきましょう。で、よく「すごいですね、フランス語が話せるんですか」と言われるようなのですが、そのときには、
ええ、頭のいいフランス人とは話せますよ
と答えると言います。
「頭のいいフランス人とは話せる」とはどういうことかと言うと、
相手がこちらのフランス語力を推察する力を持ち、そのレベルに合わせた話し方をしてくれれば話せる
ということのようです。うーんなるほど。
2人のドライバー
実は、これを象徴するような出来事がありました。先日私の住んでいるカンボジアでは連休があったのですが、家族そろって久しぶりにリゾートにでかけてきました。その時のことです。
ホテルが車を手配してくれて、乗用車を貸し切って現地に向かったのですが、行き帰りでドライバーが違いました。
カンボジアでは、外国人相手のホテルやレストランならほぼ英語が通じるのですが、車の運転手は通じないことがあります。私はクメール語を勉強しているので、これは良い機会だと思い、ドライバー相手に少し話をしてみることにしました。
まあ話すと言っても、雑談する力はありませんので必要なことをクメール語で言ってみる程度です。ざっくり言いますと、
行きのドライバーとは話が通じなかったが、帰りのドライバーとはわかりあえた。
という印象をもちました。
行きのドライバー
行きのドライバーとはまったく話が通じませんでした。私が基本的で「絶対にこれは通じるであろう」と思ったことも理解してくれませんでした。
一番ショックだったのは「休憩したい」と言った時です。
「休憩したい。トイレに行きたい。コーヒーを飲みたい。いいところがありますか。あったら止まってください。」
これが通じませんでした。相手は私のわけのわからないクメール語に慌てたのか、誰かに電話をかけて、この人に話してくれ、と私に英語で話すことを要求したくらいです。ショックで三日間寝込みました。
別にそのドライバーを責めているわけではありません。私の発音が下手だっただけなんですが、それと同時に、相手に推察力を働かす能力がなかったとも思っています。
帰りのドライバー
一方帰りのドライバーとはある程度コミュニケーションができました。最初は様子見だったのですが、私が最低限のクメール語は理解できるとみると、いろいろな話をしてくれました(半分くらいはわかりませんでしたけど)。
ドライバーが一方的に話すだけでなく、基本的に私に何かを聞く形で会話が進みました。
「どこから来た?」「何している?」「どのくらいカンボジアにいる?」「家族は?」「車持ってないの?」「家は持ち家か?」
話す途中で何かわからない言葉が出たんですけど、そのときも「その言葉がわからない」という表情をすると、やさしいクメール語に置き換えてくれました。例えば「乗用車」を「車」と表現するようなものでしょうか。
聞き手は重要
旅行は2泊3日だったので、その間に劇的にクメール語能力が上がるということはありません。私のクメール語レベルは同じなのに、コミュニケーションレベルに違いが出るということは、相手側の影響が大きいと考えるのが妥当でしょう。
勘違いしてもらうと困りますが、私は「行きのドライバーの能力が低いから話が通じなかったのだ、そいつが悪いのだ」と言っているわけではありません。コミュニケーションがうまくできなかった原因は全的に私にあります。
ただ、聞き手(ネイティブ)の能力も話し手(非ネイティブ)のパフォーマンスに大いに影響を与えるということです。
「先生とは話ができるけど、他の日本人とはうまく話せません」という学習者の言葉はみなさんも何度か聞いたことがあるはずです。私にとっても、私のクメール語をもっともよく理解してくれるのは私の先生ですし、先生の話すクメール語が私にとってもっとも簡単です。
で、私たちは日本語教師ですからそのあたりの「良い聞き手である」ことは訓練されてますが、例えばさっきのドライバーは二人とも言語教師ではありません。でも、聞き手としての能力にはかなりの差があるんですね。それが、冒頭に上げた、
「頭のいいフランス人とは話せる」
というコメントに帰結するわけです。
「頭がいい」とは?
そうすると、私たちは「頭がいい」聞き手であるべきだということになりますが、「頭がいい」というのはどういうことでしょうか。もう少し噛み砕いてみます。
聞くことに関して言えば
文脈理解力が優れている
ということができるでしょう。「発音は下手でよくわからないが、この場面に言うべきことを考えると、この単語を指しているに違いない」ということを瞬時に判断できる能力ですね。
銀行に来た人が「包丁作りたいんですけど」と言えば、はじめはギョッとするかもしれませんが、すぐに「通帳作りたいんですね」と理解できるみたいなことです。
話すことについて言えば、
シンプルな文法、やさしい単語で話すことができる
ということでしょう。これはつまり、最近巷で言われる「やさしい日本語」ですね。
「やさしい日本語」能力はおそらく訓練で身につけることができます。以前私がブログ上で紹介した↓の記事の本などを一冊買って読んで練習すれば、まあ誰でもそこそこできるはずです。言語教師じゃなくても。
問題は「文脈理解力」の方でしょうか。これは経験を積む以外の方法でどう鍛えればいいか、難しいところですね。でも多分思うんですけど、これって話者の立場をどれだけ理解できるか、話者と同じ方向に顔を向けられるかということだと思うんですね。
今私と一緒に仕事をしてくれるカンボジア人の中で、日本語を解さないにも関わらず、私の言うことを極めて正確に理解してくれている人がいます。普段のやり取りは英語でやるんですが、2,3の文を話すだけで理解してくれて間違いがありません。結構センシティブな問題を取り扱っているにも関わらず、この人とのやり取りで誤解が生じたことは一度もありません(と私は思っている)。
その理由は(端的に言うとその人が「頭がいい」からなんですけど、それを言ったらまた振り出しに戻りますね)、私の立場、私の見ているものや仕事の方向性をしっかりと理解しているということに尽きます。だからこそ、私のつたない英語2,3文でも仕事に混乱が生じないのですね。
まとめ
というわけで、コミュニケーションには相手の立場や考え方、見ているものを正確に理解する能力が求められる、という話をしました。
でも「だからどうしたの?」と言われたら私も二の句が継げません。
日本語教師に対しては釈迦に説法ですよね。
ただ、もし外国人とコミュニケーションをとらなければならない日本語教育関係者じゃない人とかに対してアドバイスをするときの一つとして、この項目は入れた方が良いと思うんですよね。
おそらく「やさしい日本語」みたいなわかりやすく、キャッチーな活動や練習はやりやすいと思います。でも、口頭コミュニケーションは「話す」と「聞く」が対なわけですから、この文脈理解力を鍛えるために、徹底的に相手の立場に立つ、相手の状況を想像するということもあわせて付け加えておくと良いと思います。
あとですね、ちょっと違う話になりますけど、「こちらの語学力を測る前にまくしたてる人」っていますよね。あれ、なんなんでしょうね。こちらがどのくらい言語ができるかどうかもわからないのに、ペラペラと話してきます。英語などだと特にそんな気がします。
私は必ず相手の能力を探ってから話しますけどね。それは語学教師であるとかあんまり関係ない気がするんですけど、どうでしょうか。それも「頭がいい」の要件に入るんですかね。