ちょっと前に↓のブログ記事を読みました。
■2/2 前回のクラスのリフレクション – 反省 (「KENブロ」より)
↑数か月に渡って行われた授業の総括をしているのですが、学習者からのコース終了後のコメントとして、
(先生は)もっと厳しくなっても良い
といった内容のフィードバックを受けたということが書かれています。まあ、先生が優しいとそこにつけこみ勉強しなくなる、ってことだと思います。しかし、
はて?厳しくするって具体的にどうすればいいのでしょうか?
例えば宿題をやってこなかった学生がいたとして、
・怒鳴る
・校庭を10週走らせる
・罰金を徴収する
・反省文を書かせる
・廊下に立たせる(バケツをもって)
なんて、ことではないでしょうね。さすがに。でも、じゃあ仮に宿題をやってこなかった学生がいたとして、どういう対応をすれば「厳しい」と言えるのでしょうか。それか、そもそもあるパフォーマンスに対して何かアクションを教師がおこすことが「厳しい」につながるのでしょうか。
つまり、私は「厳しい」ということを考えたことがなかったんですね。学習者を叱るとか、叱責を与えるみたいなことは考えたことすらありませんでした。
でもですね。はっきりと学生は、
もっと厳しくなって良い
と言っているんですよね?だとしたらその学生のニーズを満たすためには「厳しくなる」必要もあるわけです(学生のニーズを満たすべきなのかというのはまた別の問題ですけど)。今日は日本語教育現場における「厳しい」ということについて考えていきたいと思います。まずは、私の半生を振り返り、教育機関における「厳しい」例をいくつか挙げていきます。
厳しい例①
うわさで聞いたことがあります。韓国のある英語塾はとても厳しいという話を。2000年代前半の話です。
その英語塾は、とにかく厳しくて、
・授業が始まると教室は施錠され、遅刻した学生は中に入れない
・プレイスメントテストで1点でも基準に達しないと上のクラスに進級できない。何度でも同じ授業を受けさせられる
・ネイティブの先生は笑み一つこぼさず、無駄口一つたたかない
のだそうです。みなさん、そういう学校に通いたいと思いますか??どうでしょう。私は絶対嫌ですけど、驚くことにその学校は、
超人気校
なのだそうです。
厳しい例②
これは私の担校していた授業なんですけど、短期決戦の割とがっつりしたコースです。最終目標が日本の企業に就職する、みたいなことだったと思います(10年以上前ですのでだいぶ忘れました)。
ある時、学生代表みたいな学生がやってきて
先生、毎日テストをしてください
というのですね。なかなか熱心だな、と思って範囲を決めて毎日小テストを出すことにしました。そうこうしているうちに学生間で話し合いが持たれたようで、その数日後には、
小テストで何点以下は罰金いくら
みたいなルールが定められました。そのルールは学生間で勝手に決めたので、私はそのルール制定にもお金の管理にも関係しませんでしたが、自分たちで考えて「厳しさ」を作っているようでした。私はその様子を横目で見ていました。
厳しい例③
ある人の子供さんの話です。仮に小学4年生にしましょう。3年生の時は宿題もしっかりとやり、字もきれいに書いていたのだそうですが、4年生になった瞬間その学習態度が一変したといいます。親御さんが推測するに、担任の先生が変わったから、だそうです。
3年生の時の担任は細かいことにもうるさく、いわば箸の上げ下ろし一つ一つに指導をしてくるような先生だったそうです。たたいたりはしませんが、叱責はしばしばあったそうです。一方4年生の担任はおおらかな人で、あまり細かい指摘を子供たちにしないそうです。それで子供も気が緩んだのだろう、とのことでした。
子供さんに「どっちの先生が好き?」と聞くと、やはり「4年生の先生の方が好き」と答えるそうです。
楽な先生に習える方が子供も気楽だし、いいとは思うが、親としては複雑な気分だ、ということをおっしゃっていました。
厳しいとは?
というわけで、三つの例をあげてみました。ほかにもいろいろあるでしょう。もちろん「手を上げる」とか、「人格的な攻撃をおこなう」というのは論外なので、取り扱いません。
学習機関における「厳しさ」とはつまり「●●をしないと学習者に不利益が与えられる」ということを指します。それを総合して「厳しさ」というのではないでしょうか。
「なぜ厳しさを求めるか」ははっきりしてきますよね。それはある種の人々にとっては「厳しさ」があった方が学びが進むから、ということであり、もっと言うと
厳しくないと勉強しない
ということにもつながるということです。
例えば最近同僚と話をしていた時「英語の勉強方法を変えた」という話を聞きました。「これまではスカイプ英会話のようなものやっていたのが、家の近所の塾に通うことにした」というのです。なぜ?と聞くと
スカイプ英会話は自分で予約を入れないと勉強できない。でも英語塾は決められた曜日、時間には授業を受けなければならないから。
とのことでした。もちろん近所の塾でも「行かない自由」はあるわけですが、やはり曜日や時間が決まっている方がいい意味で足枷となるということですね。
それは私も同じです。今はクメール語のオンラインレッスンを週1で受けていますが、時として気分が乗らないことがあります。でもそれでも時間になれば行くんですよね。そうやって無理にでも学習時間が作られることになるわけですが、これも「厳しさ」と関係するかもしれません。
つまりですね、学習者が求める「厳しさ」というのはある意味「学習のための動機づけ」であるといえるでしょう。
動機付けとしての厳しさ
普通学習のための動機付けにはもっと肯定的なものがあげられます。
・その対象への純粋な興味
・学習することによって得られる様々な利益
普通、そういう動機付けによって個人の学習は成り立っています(と私たちは考えます)。学習に対する動機は多ければ多いほど良いでしょう。でも↑のような動機って、学習をやめてしまえばリターンが得られないだけなんですよね。それによって失うものがないんです。私がクメール語の学習をここでやめたからといって失職するわけではないし、家族に危険が及ぶわけではありません。
ですから、動機の強さにもよりますけど、学習が行き詰まると、やめることができます。まあ日本語を完全にやめるかどうかまでいかなくても、「宿題は今日はやらない」とか「明日の授業は休もう」くらいはよくあることでしょう。
そこでその弱い私たちを学習に駆り立てるものが
厳しさ
なんでしょう。「宿題をやらなかったら先生に小言を言われる」とかもあるでしょうし、単に「先生に申し訳ない」みたいなこともあるかもしれません。それも含めての「厳しさ」です。「小言を言われる」のは明らかに学習者にとっては不利益ですし、先生に申し訳ないというのは学習者にとっては自責の念にもつながるので、不利益ともいえるでしょう。
とにかくそういった「厳しさ」は、「やらないと何か失うものがある(=不利益が自分に生じる)」という点で「正の動機付け」とは異なっています。
一つの結論
というわけで、現実問題として「厳しさ」が学習を促進する側面を否定できないのであれば、私たち教師もその
厳しさをどのように扱うか
については、日ごろから考えておき、手持ちのカードを用意しておく必要がありますよね。もちろん「厳しさ」は教師の振る舞いだけで成立するものではないですけど、
教師がコントロールすべき厳しさ
についてはやっぱ、ちょっと考えておいても良いのではないかと思いました。
で、いろいろ考えたんですけど、長くなるので今日はここまでにします。続きは↓