厳しさと日本語教育②

投稿者: | 2021年6月3日

厳しさと日本語教育①

↑からの続き。

学習の成功のためには学習者個々にモチベーションを高く保ってもらうことが重要ですよね。その動機付けをプラス的におこなうか、マイナス的におこなうかってのが今考えていることです。

プラス的 → おもしろい授業をする!役に立つ授業をする!
マイナス的 → 厳しくして、ちゃんとしないと不利益が生じるようにする

プラス的は私たちもこれまでいろいろ考えてきたと思いますが、マイナス的のモチベーションアップにはどういうことがあるでしょうか。

前回の記事では「厳しさ」について以下のように書きました。

というわけで、現実問題として「厳しさ」が学習を促進する側面を否定できないのであれば、私たち教師もその厳しさをどのように扱うか については、日ごろから考えておき、手持ちのカードを用意しておく必要があります

そう、学習者の学習目的を達成するための手段としての「厳しさ」を考えようということです。

「よーし、じゃあ明日からビシバシ行くぞ!」というものでもないでしょう。「馬鹿と厳しさは使いよう」と昔からよく言うように、「厳しさ」も使いようを心得ておかなければなりません。

厳しさを必要としないところ

「厳しさ」の話をしていますが、ある条件を満たした場合には特に「厳しさ」が必要なくなることがあります。それは、簡単に言いますと(一斉授業を念頭においていますが)、

①すべて、もしくはほとんどの学習者の目標が同一で、
②かつ、その目標達成の可否を教師側が握っている

場合です。なぜならそういうところはすでに「厳しさ=ちゃんとやらないと不利益が生じる」があるからです。

そういう教育機関の例をあげましょう。

自動車教習所

はまさにそれに該当するのではないかと思います。私が自動二輪や普通車の免許をとったのはもう20年以上も前なので、その時と今が同じ状況なのかどうかわかりませんが、まあ多分同じでしょう。自動車教習所は①も②も満たします。

①すべての受講生は免許を取得するのが目標
②卒業するためには教官のハンコが必要

教習所に通う人は明確な強い動機をもっているはずです。学費は全部前払いでしょうし、受講生としてはできるだけミスをせず時間をかけず最小の時間、最小の努力で免許がほしいと思うでしょう。うまくできなくて試験に落ちたり補習を受けたりしたら時間的経済的損失を受けます。ですから制度的に「厳しさ」が埋め込まれているのです。そこでは特に追加的な厳しさを必要としません

私が通ったところは七面倒くさい教官がたくさんいましたけどね。それはまた別の話ですね。

教習所ではなく、日本語教育の現場でも同じです。私が以前つとめていた韓国の私立大学で教養の日本語科目を担当していた時のことです。ここでも同じく厳しさは必要ありませんでした。

①ほとんどの学生は良い成績(A)をとることが目標
②成績付与権は全的に教師が握っている

からです。韓国の学校で働いたことのある人はわかると思いますが、韓国の学生は成績の良し悪しを気にします。私などは大学時代、「Fでなければ良い」くらいの心構えで、やっとこさ単位をそろえて卒業したくらいなのでまったく彼らの気持ちがわかりませんでした。まあその背景にもいろいろあるんですが、とにかく私のいた私立大学でも、成績をつけたあとの学生からのクレーム処理はなかなか大変でした。

でも、ですね、それは逆に言うと楽なんですよね。

私はニコニコしながら、最初の授業で、

この授業で良い成績をとるためには、1回の小テスト、2回の定期考査、1回の会話試験で高得点をとればよろしい。あとは学校の規則として、4回以上欠席するとFをあげざるをえないので、その辺の管理は自分で管理せよ。また授業の進行に協調する学生には態度点を高いものとする。以上。

とだけ言っとけば、あとは学生が自分で勉強してくれるし、授業にも積極的に参加してくれるわけです。彼らにとってCやDはおろか、Bという成績を受けることだって人によっては「損失」に当たりますから。

もちろん中には不真面目な学生もいますが、大多数の学生はちゃんと勉強をしてきます。私は不真面目な学生に時々声がけをして、少なくとも日本語や日本人に対してマイナスな印象を抱かせないようにフォローするくらいです。

ですから、私は宿題を出す必要もないし、遅れてくる学生を叱責する必要もありません。ニコニコしていればいいんです。純粋に「どうすれば授業がおもしろくなるか?」だけを考えていればよかったのです。楽でしょ?

というわけで、今回のシリーズでは「厳しさ」について考えていますけど、その教育機関や学習者のおかれた状況を鑑みた上で、上のような2つの条件がそろっているところに関してはあんまり「厳しさ」を導入する必要がないのではないないかな、と思います。

あくまでは「厳しさ」は尻をたたくものであり、学習者の動機付けを負の側面から支えるものです(ただ単に先生がこわいとか、口が悪いとかそういうのはここでは想定していません)。すでに確固たる目標(それが「成績」のようなものであっても)があって、積極的に学習にとりくまないと自分が損をするということが全員が理解できるような状況では「厳しさ」は無用の長物でしょう。それはデフォルトで「厳しさ」が埋め込まれているようなものですから

厳しさが必要ないところは少ない

他にはどうでしょうか。上で上げた条件

①すべて、もしくはほとんどの学習者の目標が同一で、
②かつ、その目標達成の可否を教師側が握っている

この二つをちゃんと満たすところってあんまりないと思うんですよね。

例えば、私の今の職場。基本的に学期ごとに授業料を払って週2とか週3とか(90分/1回)で授業を受けるシステムですが、学習者の目標はバラバラです。一応テストで基準に満たないと次のレベルに上がれませんが、データを参照すると出席率が6割を超える学習者の中で基準に満たない点数を取る学生はあまりいません。つまり、進級の可否はほぼ「出席率=学習モチベーション」にかかっているといえます。ただ上記したように学習者のモチベーションはバラバラですから、そこで制度として何らかの統制をとることができません。

まあ、私のところだけではなくて一般に語学学校とか語学スクールと言われるところは大体同じでしょう。

また、私は今クメール語のオンライン1対1授業を受けていますけど、その学習の成否や学習の継続は全的に私のモチベーションにかかっています。やめようと思えば明日やめることもできます。使う機会も限定的ですし、特に学習をやめて明日から困るということもありません。

というわけで、最初に自動車学校や韓国の大学の例をあげて「こういうところでは追加的厳しさをそもそも必要としない」「厳しさはデフォルト」と言いましたが、そういうところはあまりないのではないかと思います。

まとめ

今回のまとめはこれです。

厳しさがすでに制度的・環境的に存在するところでは追加的な厳しさを適用する必要はない

例えば韓国の大学の場合ですけど、「来週テストをします」と言えば学習者はそれに向けて自分なりに勉強してくるんです。わざわざ宿題などを小出しにしてやらせる必要などないのです。ただ、動機付けは高くてもどのように勉強すればわからない人はいますから、私は「もし勉強のやり方がわからなければこういうふうにしたらどうか」というモデルプランや教材を提示したりはしました。

それを使うかどうかは学習者次第です。

そのうち触れるつもりですが、この「厳しさ」は学習者の個人の自律学習能力とも関わってきます。できる人は自分なりの方法でやればいいんですよね。テストへのためのステップとして決まりきった宿題などを小出しにしてやることを義務付けてしまうと、むしろモチベーションが低くなってしまう人もいるでしょう。

だから、十分に「厳しさ」のある環境では、下手に厳しさを追加しない方がよろしい(のではないか?)、という話でした。

次に続きます。

「厳しさ」と日本語教育③

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