厳しさと日本語教育③

投稿者: | 2021年6月7日

厳しさと日本語教育①
厳しさと日本語教育②

からの続きです。

前回は全員の目標がはっきりしているところでは厳しさを追加する必要はない(のではないか?)、ということを述べました。でもそんな授業環境のところって少数ですよね。モチベーションが弱くなると「学習をやめる」とか「遅刻が増える」とか「授業に来ても他のことをしている」ということになってしまいます。

今日は、そういった場合に「厳しさ」を用いて学習者の学習をサポートする方法を考えましょう。

ただ、何度も言いますが、「手をあげる」とか「大声を出す」とか「罰を与える」というのはこの21世紀にはそぐわないですよね。旧時代はそういった手段を「厳しさ」として何とか授業を成り立たせていた人もいるかもしれませんけど、そういうのはやめておきましょう。良識ある語学教師として。

厳しさ=不利益をもたらすこと

では、どうやって厳しさを使えばよいのでしょうか。実は私もあまり「厳しさ」を発動させたことがないのでよくわからないんですけど、結局「厳しさ」というのは、

~しない(~する)と学習者自身に不利益があるという状況

を作ることですよね?小一時間ほど考えたんですが、そういうことを「厳しさ」とするのであれば、私も手段として使っていないことはありませんでした。それを思いつくままに書いていきたいと思います。

ただ、日本語教育がカバーする現場というのはほぼ無限にありますから、そのどれもが汎用性があるものではありません。可能性としていくつかの「厳しさ」の例をあげていきます。

①成績が悪くなる

成績を引き合いにできる環境であれば、もっともこれが楽な「厳しさ」ですね。私も大学生の時、最初の授業などで「〇回休んだら単位は上げない」などを聞いたときにはセコセコとそれを数えて授業に通ったものです。「この課題を出さないと単位は上げない」とか、「何点以上じゃないと合格できない」とか。

もちろんこれが適用できるのは大学とか高校とか学校教育の現場が多いかと思います。自分の意志で通う語学スクール的なところや、オンラインの1対1の授業などでは「厳しさ」として機能しませんね。

②学びがない

自分の意思で日本語を習っている人は、当然何らかの理由で日本語が上手になりたいと思っているはずです。ですからできるだけ短時間に多くのことを学びたいと思っているはずです。授業は面白い方がいいし、授業のたびに学びがある方がいいのは当たり前です。

教師の能力不足で学習者の学びを促進できないのは問題ですが、それはまた別の問題です。もし「学びがない」状態が自分の不真面目な態度や怠惰のせいで作られるとしたら、学習者はその状態を回避したいと思うはずです。

わかりにくいですよね。

例えば、以前私の同僚がやっていた反転授業がそれにあたります。

反転授業とオンライン授業は相性が良い

学習者には反転ビデオを見てくることが求められているのですが、全員が全員ちゃんとビデオを見てくることはありません。で、どうしたかというと、授業が始まるときに「見てきたか」を聞いて、見てこなかった人にはビデオのURLを送り、ビデオを見てもらい、見てきた人には違う活動をしてもらいます。

学習者としては「そのビデオを見てきたらほかの活動ができたのに…」と思うでしょうし、限られた授業時間を有意義に使えないことになります。この時のポイントは「ビデオを見てきた人たち」がやる活動をできるだけ面白い活動にすることです。そうすると、「ビデオを見てこなかった人たち」も「次は見てこよう」と思うでしょう。

実際、この授業ではちゃんと調べたわけではありませんが、時間が経つにつれてビデオを見てくる学習者が増えた印象があります。「ビデオを見てこないのは自分にとって損」ということがわかったんでしょうね。

これは1対1の個人授業などでは特に効き目があるのではないでしょうか。反転授業に限らず、例えば課題や宿題的なやってきてもらいたいとすればこの方法をとります。「え?やってないんですか?ではそれを今やりましょう」となればそれは学習者にとっての損失。教師にとっては特に痛くもありません。

まとめますと、ちゃんとやらないと自分にとって学びがなくなり損であるという状況を作るということです。

③早く終わらない

しかしですね、②の「学びがない」という「厳しさ」は高い学習動機のある学習者にとってのみ有効です。学習動機が低ければ、

「え?反転動画を見てきてない?じゃあ今見てください」
「は~い、わかりました~」

で終わりですよね。特に学びの効率性をあげたいとか考えているわけではないですから、ただ漫然と授業を受けている学習者にとっては何の損失もありません。高校とか大学の第二外国語みたいな強制的な授業に出ている学習者とか、親に言われて授業を受けているような学習者ですね。この種の学生は「学びが非効率になる」としても何のダメージも受けません。

この種の学習者にとってみれば「授業が早く終わる」に越したことはありません。ではそれを利用するというのはどうでしょうか。例として、私が多用していた方法をご紹介します。

90分の授業があるとして、大体内容は70分で終わらせます。で、私はこう言います。

「ではみなさんは、ここに書かれている会話練習をしてください。うまくできると思ったら私のところに来てください。私はその中からランダムで皆さんに質問します。それに対してうまく答えることができたら帰ってもかまいません。以上」

そうするとですね、皆、目の色を変えて練習を始めます(笑)そして、私の教卓の前に学生の列ができるのですが、もし私との会話をうまくできなかったら、学習者はまた最後列に並びなおさなければなりません。だから学生は必死です。列に並びながら前後の学生と練習をしたりしています。

まあここでは「会話」と言いましたが、別になんでもいいですよね。「書けたら見せてください」でもいいし、「音読がうまくできるようになったら見せてください。何秒以内で読めたら合格です」でもなんでもいいと思います。

私はこの方法はかなりいいと思っています。というのはですね、「うまくできたら帰って良し」の内容は、その日の学習項目だからです。別に授業と全く関係ないクイズをするわけではありません。つまり、「ちゃんと授業に参加していたら少しの努力でクリアできる内容」なのです。だから「授業に積極的に参加しないと帰る時間が遅くなる」ということになり、それは学習者にとっての損失になるのです。

ただ、これは逆に考えますと「厳しさ」でもなんでもありません。その日のCandoがうまくできればそれで帰ってよし、ということですからこれは語学の授業としてはある意味理想的なのではないでしょうか。

ただ、90分の授業なのに早くできた学生は80分で授業が終わるということでもあり、それはどうなんだ?ということにもつながりかねません。だってもしその中に学習モチベーションの高い学生がいたとしたら「90分しっかり授業してほしい」というクレームにも発展しかねませんからね。まあそれは勤務している学校や、教育機関の立ち位置にもよりますからどこでも使えるか、と言われたら難しいかもしれませんね。

④心を痛ませる

最後は心理的な作戦です。

多分みなさん、「先生今日は〇〇のため授業に出席することができません。ほんとすみません」みたいなメッセージや連絡をもらったことがないでしょうか。欠席の連絡は良いとして「なぜ、すみませんと言うのか?」が長い間理解できずにいました。だってそれによって困るのは私じゃなくて学習者本人だからです(もしそれが1対1の授業とかであれば話は別ですが)。

でもですね、学習者は「すみません」と言うんですよね。きっと学習者は「先生というものは、学生に対してはちゃんと毎日出席してほしいと思っているし、自分が教えたことをちゃんと身につけてほしいと思っているし、課題などはいつもちゃんとやってきてほしいと思っているものだ」と考えていると思うんですよね。

まあ、それは半分正しいんですけど、半分は正しくないでしょう。いろんな人がいろんな思惑で教師をやっていますので、「とりあえず授業が回ればよい」と考える教師もいるでしょうし、「学習者には能力差があるので全員にそんなに期待していない」と考える教師もいるでしょうし、「単に仕事だからね」という思いで日本語を教えている人もいるはずです。また大雨なんかの日に「学生みんな来なければいいなあ」と思ったりする人もいるでしょう(え?私じゃないですよ(笑))

あ、そういえば思い出しました。大雨の日に授業に来たんですが、だれも来ていないので「ラッキー」と思ったら雨合羽を来た学生がセコセコと走ってきました。私は「危ないし、無理してくることなかったのに」とねぎらいの言葉をかけたのですが、その学生が発した言葉は、

「先生が待っていると思いまして」

なんと感動的な話なのでしょうか。

でもここで言いたいのはやはり立場の違いは思惑の違いを生むということですね。とにかく、「授業に欠席すると、先生に申し訳ない」「宿題をやらなければ、先生に申し訳ない」などと考える人がいるものです。だってみなさん、子供のころ夏休み明けの登校日に「先生も憂鬱だろうな」などと考えたことがありますでしょうか。ないですよね。先生は「子供たちが登校してくるのを楽しみに待っていたはずだ」となんの疑いもなく思っているものです。

まあ大人になれば違うでしょうけど、やはり教師は教師の気持ちがよくわかるので困る時があるんですよね。自分が学習者になったとき、先生に妙に気を使ったりしませんか?まあ、この話はまた別の話ですね。

とにかくですね、この思惑の違いを利用しない手はないです(いや思惑が同じでもいいです)。

つまり、心を痛ませることによって学習者の行動を導くという方法ですね。

もし学習者が「先生は教えることが大好きである」という前提のもと、

・先生は学習者が欠席すると悲しい
・先生は学習者がちゃんと学んでくれないと悲しい

ということを錯覚でも感じているなら、欠席したりちゃんと学ばないことは先生を悲しませることになります。追い打ちをかけるように「〇〇さん、今日は欠席しましたね、何かありましたか?来週は来てくださいね」みたいなメッセージを送ることによって「いちいち返信するのも面倒だし、先生も来いと言っているから来週は行くか」みたいな気になることもありますよね。

私の現在の語学スクール的な職場でも欠席が続く学生にメッセージを送ると、半分くらいはひょっこり授業に来ますね。

イメージとしては大雨の日に「先生が待っていると思って」と言った学生です(まああちらとしても印象をよくするたにそういうことを言ったのかもしれませんが、それはどうでもいいです)。

実例としては私が受けているレッスンなんですけど、基本週1で時間も決まっているんです。でも時々気分が乗らないときがある。そんなときはキャンセルするんですが、キャンセルが続くとちょっと申し訳ない気持ちになります。ちょっとメンドーでも明日はやっておくかな、と思ったりします。別に先生が何か言うわけでもないけど「あんまり休みすぎると悪いな」」と先回りして思ってしまうんですよね。

「先生はみんながちゃんと学んでくれることを心より期待している」という態度を日ごろから見せておくと、それは効果をさらに発揮することでしょう。期待に応えたい、というのは程度の違いはあれ、だれでもありますからね。でもそれが機能するためには、ある程度先生として「いい人」と思われていないとだめですね。

まとめ

さて、ここまで読んでくださった方ありがとうございます。では質問です。今日は何の話だったでしょうか?

そう「厳しさ」の話をしていたのでした。で、私が出したのが

①成績が悪くなる
②学びがない
③早く終わらない
④心を痛ませる

という不利益をちらつかせることによって学習者のモチベーションをコントロールするということです。

でもあれですよね。結局俗にいう「厳しさ」とは違う気がしますね。でも私もここ最近ずっと考えてきたんですけど、教育上の厳しさってのは決して「あの先生は怖い」とか「宿題多すぎる」とかではないような気がするんですよね。

極端に言えば、ニコニコ笑って「じゃあテストもう一回同じところやりますね。何点以上取れなかったら何回でもやりますよ」みたいなことだと思うんですよね。もし「威圧的な態度」とかでしか学習者をコントロールできないのであれば、それは本当に悲しいことです。

つまり、コントロールしたい事柄を学びの中の不利益だけで調整するということですね。

プラス方向的には、学習者のモチベーションを高めるような面白い、意義のある授業を展開する。そしてマイナス方向的には何か学びにおける不利益が自分に降りかかるかもしれないという予見を学習者に持たせ、それを回避するように学習者にふるまってもらうことによって学習成果を高めてもらうということでしょうか。

その具体的な方策については機関や場所によって違うと思います。上のような④つの例が何かヒントになれば幸いです。この他にもきっともっといい案があると思います。

「厳しさ」に期待していた人にとってはちょっと肩透かしになったかもしれませんが、これが私の考える「厳しさ」です。

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