「一生」の用法 意味変遷の捉え方

投稿者: | 2021年9月3日

先日は若い層の間で広がりつつある「一生」の使い方について話しました。

「一生」の新しい?用法

「一生」が動詞を限定(修飾でもいい)する用法に新しいものが加わった、ということを述べました。

1)お金があれば、一生遊べるよ。
2)三連休は一生遊んでた。

1)が伝統的な用法で、2)が新用法ですね。

前の記事の中で私は、

旧用法:物理的に最大時間継続することを表す。
新用法:心理的に最大時間継続することを表す。

ということを述べ、特に新用法では「最大時間の範囲を任意で設定できる」ということを言いました。

ここまでが復習。

語の変化の過程

で、ですね、私のようなおっさん世代ですとね、この新用法にはかなり違和感があります。だって私の辞書には登録されていないわけですから。でもですね、よく考えると「これは若者だけの間で使わる流行語の一種である」として片づけるわけにはいかないのではないか、という気になってきました。

結論から先に述べますと、

「一生」の使い方はこれから変わります。

今私が「新用法」としたものは、

近いうちに辞書的用法に変わる。

と断言しておきます。つまりこれは語の変化における歴史的必然だということです。以下にその理路を書いてみます。

量的程度副詞

ちょっと遠回りします。「随分」「相当」という言葉がありますけど、これはいわゆる程度副詞に分類される語です。で、ちょっとマニアックなんですけど、程度副詞には「純粋程度副詞」と「量程度副詞」という二種類がありまして(この用語は「揺れ」があります)、この2語は後者「量程度副詞」に該当します。

見分け方は簡単です。まず、3)の【 】に入って、後接する「おもしろい」程度を限定している言葉を考えてみてください。

3)【 】おもしろかった。

「とても、かなり、非常に」などが入ります。そして(文脈を必要とするかもしれませんが)もちろん「随分」「相当」も入ります。この【 】に入る言葉を「程度副詞」と呼びます。で、その中から4)にも入る言葉を考えてみてください。

4)【 】食べた。

「とても食べた」「非常に食べた」は言えませんが、「かなり食べた」「随分食べた」「相当食べた」は言うことができます。ここに入るということは「食べた」量を限定できるということです。それで、3)にも入り、4)にも入る、すなわち、後接する成分の程度的側面、量的側面どちらも限定できるものが「量程度副詞」と呼ばれるのです(程度的側面だけ限定できるものは「純粋程度副詞」)。

まず、ここまでよろしいでしょうか。まだフリの段階です。

意味の歴史的変化

で、この程度も量も限定できる「相当」「随分」ですけど、はじめからそういう機能があったわけではありません。漢字を見ればわかりますけど、そもそもこれは名詞として意味を持つ語です。

「相当」は「~に当たる」「~に当てはまる」とかそういう意味ですよね。今でも「1ドルは100円に相当する」のように使います。

「隋分」も漢字を見ればわかりますよね。「分相応」とか「分に随う」という意味です。「それは随分な話だな」みたいな使い方もありますね。

で、「名詞的な意味」と「程度副詞的な意味」どちらが先にできたと思いますか?

火を見るより明らかですよね。これは名詞的用法(ていうかはじめはそれしかないと思いますが)から徐々に意味がスライドしてきて、程度副詞的な機能を持つに至った、と考えるのが普通です。

ちょっと理屈を端折りますけど、鳴海(2012)によると、これらの語は、

そもそもの語義→量限定機能→程度限定機能

というように発展してきたとのことです。すごく簡単に現代語で説明すると、

「1ドルは100円に相当する」→「相当食べた」→「相当おもしろい」

に対応していると言ってよいでしょう。「随分」も同じです。

そしてその論文の中では隣接する用法について「意味的に近接するだけでなく、歴史的にも一方から他方への移行がおこる」と言っています。

このモデルを「一生」に当てはめてみましょう。

「一生」の変化の過程

※今から話すことは推測です。裏はとってません。

鳴海氏によると、「随分」「相当」のような漢語的程度副詞は以下のような変遷をたどるということでした。わかりやすく、記号を振りましょう。

Aそもそもの語義→B量限定機能→C程度限定機能

Aの段階は「一生を捧げる」「一生を棒に振る」「女の一生」みたいな文字通り「生涯」「終生」という意味の段階でしょう(あ、もしかしたらもっと辿ると仏教用語とかかもしれませんけど、とりあえずここからスタートします)。

そして次はBの段階ですけど、これは、

5)一生寝て過ごす
6)一生連れ添う

みたいな用法です。5)6)の「一生」はそれぞれ「寝て過ごす」「連れ添う」の量的側面を修飾しています。しかし注釈が必要で、量は量でも「時間量」的側面ですね。これもここでは量に含めましょう。

A(「一生を捧げる」)とB(「一生寝て過ごす」)の「一生」は、意味的にも非常に近接しています。だから特に分けて考えなくても良さそうです。というか、大部分の人は分けて考えることはしないでしょう。しかし、「一生」の新用法2)を見てみると新たな段階に突入したということがわかります。

2)三連休は一生遊んでた。

この「一生」は「遊んでた」時間量を限定するのは5)6)と同じですけど、Aの段階の原義「生涯」「終生」という意味からはかなり遠くなっているんですね。というかその原義は入っていない。つまり、2)「三連休は一生遊んでた」という用法が認められてきたということは、

「一生」がBの「量限定機能」を持つに至った証左になる

わけです。「随分」にしても「相当」にしてもはじめは意味がしっかりと決まった名詞だったんですね。それが徐々にスライドし、汎用的に動詞と共起しつつその動詞の「量性」や「程度性」を限定する機能を持つに至ったのです。

新用法について「最大時間の範囲を任意で設定できる」と冒頭でのべましたが、「一生」が量限定をおこなう副詞として自立したからこそ、その量を「任意」で限定できるんですね。

以上のことから、我々は「一生」の語としてのポテンシャル変化を目撃している幸運の世代とも言えますね。

「一生」のこれから

というわけで、原義(A段階)から抜け出し、晴れて21世紀に量限定機能(B段階)を持つに至った「一生」ですが、これからの変化は容易に予想できます。それは、もちろんC段階に進むということで、

程度限定機能を有するようになる

ということです。つまり

7)一生おもしろくて、笑いが止まらない。
8)あの店、一生うまいから今度行ってみよう。

と普通に会話する時代がくる、ということです。実はその芽はすでに出ていまして、こんなやりとりを私はTwitter上でやってしまったことがあります。

このあとのやりとりで、話者は「痛さが継続する期間が長い」という意味で使用していることが判明しましたが、この辺は曖昧で、量限定機能から程度限定機能にスライドする余地は十分あるということです。

鳴海(2012)を読みますと、「随分」や「相当」はそれこそ数百年という期間を経て意味変遷をおこなってきたようですけど、今はその時代とは文字、音声ともに行きかう量やスピードが半端ありません。私は断言しますけど、

あと20年もしないうちに「一生」の程度限定機能が普通に使われるようになる

と予想します。

おわりに

というわけで、「一生」の変化の過程をどのようにとらえるべきか、ということと、これからの「一生」の変化の予想について書いてみました。

今の「一生世代」の皆様、私の予想が当たるように、ぜひ「一生」の新用法を思いっきり使ってください!

参考文献

鳴海伸一(2012)「程度的意味・評価的意味の発生」『日本語の研究』第8巻一号

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