『私たちはどう学んでいるのか』①スキルとしての言語

投稿者: | 2023年5月10日

鈴木宏明(2022)『私たちはどう学んでいるのか―創発から見る認知の変化』筑摩書房

「その学週観、間違っています!」とキャッチーな宣伝文句が書かれていますが、表層的な煽りを目的とした本ではなく、真面目で硬派な本です(文章は平易でわかりやすいですが)。

教育一般について述べられており、特に語学教育に特化した内容ではありません。ですが、いろいろとおもしろい記述がありましたので、語学教育や学習と絡めて私が思ったことをつらつらと書いていこうと思います。

本当は一つのエントリーにまとめようと思っていたんですけど、書き出したら長くなりそうなんで複数回に分けます。今回は「言語はスキルである」という観点から、本書を引用しつつ思ったことを書いていきます。

宣言的知識と手続き的知識

ちょっと本書とは関係ないところからスタートします。

第二言語習得の話を聞いていると、

・宣言的知識
・手続き的知識

というような言葉がよく出てきます。私の理解では前者が「口で説明できるような知識」で、後者が「ある動きを実現するための知識」という感じでしょうか。例えば「て形」についての例を挙げると、

「辞書形の動詞をて形に変える時のルールを口で説明できる」人は、これについての宣言的知識があるといえますし、「ルールは説明できなくても全ての動詞をて形に変えることができる」人は手続き的知識があると言えるでしょう。

一般に言語運用は「手続き的知識」だと言われます。そうですよね。て形の作り方を説明できない日本語母語話者ってたくさんいると思いますけど、その人たちは普通に日本語を話しているのですから。もちろん日本語教師になろうと思ったら、日本語についてのさまざまな「宣言的知識」が求められるとは思いますが、とりあえず言語運用は「手続き知識」があるかどうかです。

で、そういう手続き的知識が必要なものは一般に「スキル」と言われます。コンピュータの仕組みがわからなくても文書が作れれば「文書作成のスキルがある」と言いますね。言語運用も大まかには「スキル」ですね。

うねり

で、そういったスキルの習得についていろいろ面白い記述があります。

練習による上達にはうねりがあり、直線的に上達が進むわけではなく、複雑なうねりが存在する。このうねりは、そこで用いられる複数のリソースが、微細に異なる環境の中で相互作用する中で創発する。そしてうねりは次の飛躍のための土台となる。 (p.60)

つまりスキルは直線的に伸びていかない、ということですね。スポーツの世界でもスランプとかありますし、日本語学習者でもよく「伸びていない気がする」「最近下手になったような気がする」という言葉を聞きます。しかしその「うねり」は「次の飛躍のための土台になる」というのですから、肯定的に受け止める必要があるということです。

しかしその「うねり」は「そこで用いられる複数のリソースが、微細に異なる環境の中で相互作用する中で創発する」という部分はよくわからないと思うので補足しますと、「上達を目指すための工夫に対応しようとすると最初はロスが出る」ということだと私は解釈しました。

言語運用で言うと、飲食店での注文が割とスムーズにできるようになった人が、さらに上を目指して「もう少しこなれた表現を使ってみよう」とすると、以前は単語の羅列だけでもスムーズにできていた注文が、一時的にうまくできなくなるということが生じる、みたいなことでしょうか。できることが増えてくると、自分への要求が高くなりそれで一時的にスキルが後退したような気がする(実際タスクの達成度は下がるかもしれない)んですよね。

本書で言っている「スキル」は言語活動よりももう少し単純なものなので比較はできませんが、とにかく言語習得でもうねりがあり、そのうねりは更なる上達のために必要なプロセスなのだということはメモしておきたいですね。

練習のベキ乗則

上達のスピードについては「練習のベキ乗則」ということが言われています。

練習を始めた最初のうちは大きくタイムが減少するが、練習を重ねるにつれてタイムが減少するのに時間がかかるということである。(p.65)

言語学習もこれに当てはまりますね。最初はすぐに上手になるんだけど、ある程度勉強が進むにつれてその伸び方は鈍化していく。それも「スキル」であれば当然ということです。

ただ、同じ「スキル」と言っても、本書で言っているのは「ブロックをある規則に則って並び替える」とか「折り鶴を折る」とかそういう極めて単純な「スキル」のことですので、それよりは高度の認知能力を使うような言語習得とは同じレベルで語れないというのはその通りです。ただ、同じ「スキル」として参考になる部分はあると思います。

無意識から創発される

ある意識化された運動は、無数の意識できない運動の調整から創発されるものなのだ。(p.61)

という記述があり、スキルの中核は無意識的な運動が占めていると言っています。これは車を運転する例がわかりやすいと思います。私たちは振り返ってみれば運転の仕方を言語化することは可能ですが、その言語化されたマニュアルを理解するだけで乗れるようになる人はいないでしょう。むしろ言語化できるのはその運動のごく一部であり、その一部と一部をつなぐ線は無意識的な運動でつながっています。

言語もそういう部分があると思います。もちろん言語的な活動は、そのほとんどを言語化することが可能(当然ですね)ですが、それは事後的に文字化や言語化が可能であるということであって、やりとりの最中に「どういう音を出すか、どういう語を用いるか、どういう順番で語を並べるか」などは無意識的な運動です。

もちろん習得レベルが下がれば下がるほど、頭の中でいろいろ考えたりして意識的な運動になるわけですが、母語とか習得レベルの高い言語であればあるほど無意識的な活動になります。それは熟練したドライバーが何も考えなくても車を発進させることができるのと同じですね(初心者だと一つ一つ手順を思い出しながらサイドブレーキを解除したり、椅子の位置を調整したりしないといけません)。

無意識って扱うのが難しいんですよね。だって明示的に扱えた時点で無意識じゃないですから。でも、それを利用した活動というのは普通に皆さんもご存知だと思います。色々あるとは思いますが、私は多読とかはそういう無意識の創発を利用した活動だと思っています。

多読って知らない単語を調べたりもしないし、とにかく読むことを楽しむというのが一番大事なんですよね。そうやって大量に自分のレベルにあったものを見ていると、知らぬ前に読めるようになっていると。私は多読ならぬ多聴を実践しているんですが、これは効果あるな、と思っています。ずっと聞いていると、ふと心が空っぽ(何も考えていない)になっている時に中国語のフレーズが入ってきても理解できることがあるんですね。

先日、瞬間的に言葉を発しないといけない場面があり、ぱっと脳裏に浮かんだのをそのまま発話したら、普通に通じました。で、おもしろいのは、通じた後に事後的に「何も考えず話して通じたけど、正しい表現だったのだろうか?もしかしてこの単語を使った方が良かったのではないか?」とネットでいろいろ検索してみたんですが、結果として瞬間的に出てきた表現が正しかったことがわかったんです。

まさに無意識の創発からおこったスキルの習得ですよね。

※テストで最初に思いついた答えが後になって違うような気がして直したんだけど、やっぱ最初に書いた答えが正しかったみたいなやつですね笑

トレンドの移り変わり

ってここまで見てきたら、なんとなく見えてきたんですけど、日本語教育のトレンドも「宣言的知識」なものから「手続き的知識」なものを養成することにだんだん移行していきているのかなと思いました。

伝統的なやり方だと、新出単語の確認、文法事項の説明、練習問題、応用問題というふうに宣言的知識から始まってだんだんそれを手続き的知識に移行していくようなやり方ですよね。

一方最近の行動中心アプローチとかだと、いきなり最終的な会話を聴かせたりするところからはじまって、文法とかはそこそこに、とにかくその行動ができればOKみたいな風に進みますよね。手続き的知識が大事なのであって、宣言的知識はそれをサポートするために用いるんだよっていうことでしょうか。

つまりそのトレンドの流れは「スキルとしての言語活動」がクローズアップされてきた結果なんじゃないでしょうか。一昔前まで日本の英語教育を考えても「スキル」と考える人は少なかったんじゃないか。英語は受験勉強であり、「お勉強」の一ジャンルでしたよね(もちろんそうじゃなかった人もいるでしょうけど)。

もちろん今でも英語やその他の外国語を「お勉強」や「教養」と捉えている人もいるでしょうけど、圧倒的に「スキル」としての存在感が上がってきましたよね。もちろんそれはどちらが正しいとかいいとかではなく。

スポーツに近い?

しかし難しいのは、スキルとして捉えても「折り鶴を折る」みたいな単純な運動とは少し異なるのが言語活動です。状況や場合に応じて適切なスキルを発動させなければならない、って考えたら、もしかしたらサッカーみたいな運動に近いのかな、という気がしてきました。

サッカーの場合でも一つ一つの動作は、基本とかがあって、いろんなボールの蹴り方や体の使い方をマスターしないと上達できないでしょうが、一つ一つの動作が上手になったからと言ってサッカー選手として評価されるわけではないでしょう。

とは言え、練習では「蹴り方」「体の使い方」「ヘディングの仕方」などを取り出して訓練することも必要なんでしょうね(知らんけど)。

昔あるドイツのチームの監督が「毎試合、肩でゴールを決める選手がいたとする。私は迷いなくその選手を使うよ」と言った話を思い出しました。これはなんの比喩かというと「テクニックが劣っていても、結果を出す選手が価値がある」ということです。

よく英会話の話題で「日本人が英語を話す時、間違いを指摘するのは大体日本人だ」みたいな話が出ますよね。これは一般の日本人の英語運用が「宣言的知識」に傾きすぎているためなのかな、と思いました。「おい、お前肩でゴール決めんなよ」みたいな?もちろん美しくゴールを決められればそれが最高だとは思いますが、大事なのはゴールを決めることですよね。それを探求していくのが最近の語学教育のトレンドになりつつあるんでしょうね。

一応明示的に書いておきますと、「美しくゴールを決める」というのは「きれいな日本語で意思疎通ができる」ということの例えです。「ゴールを決める」は「とにかく意思疎通ができる」ということです。

まとめ

というわけで、『私たちはどう学んでいるのか―創発から見る認知の変化』を下敷きにして、思ったことをつらつらと書いてみました。書いた内容のほとんどは本書では書かれていないことですので誤解なさらぬよう。

あと、「言語はスキル」と簡単に書いてしまいましたが、ここには注釈が必要です。言語はスキルというのは多分間違いではないんですが、「言語にはスキルとしての側面がある」というのが正しい言い方かなと思います。自動化されたスキルとしての言語活動が、言語活動の全てではないと思います。このあたりまで書くと本当に長くなってしまいますので、とにかくこのエントリーでは「言語のスキル的側面」についての話だと理解していただければ幸いです。

続きは↓

『私たちはどう学んでいるのか』②基礎から応用?

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