昨日は「そもそも」と「ほぼほぼ」について思うことを書いてみました。
もう一つ、すんごく気になる(嫌だということではありません)のは「とはいえ」です。
2つの用法
「とはいえ」は基本的には接続助詞的に用いて逆接を表すものでしょう。
時間がなかったとはいえ…
暦の上では秋とはいえ…
みたいなものですよね。おそらくそこからの派生ですが、接続詞としての用法もあります。
時間がなかった。とはいえ…
暦の上では秋である。とはいえ…
再びアクセントの問題
で、問題はこの「とはいえ」の接続詞としての用法のアクセントなんです。
接続詞の方は伝統的に頭高型で発話していたと思います。
時間がなかった。とはいえ…(頭高型)
リンクは切れるかもしれません。で、私がびっくりしたのは接続詞の「とはいえ」を他のアクセントで発話する人が出はじめている、ということです。で、そのアクセントは確か「平板型」と「中高型」の2つのパターンがあったように記憶しています。
1)時間がなかった。とはいえ…(中高型)
2)時間がなかった。とはいえ…(平板型)
(※すみません、これ中高型?で合っているでしょうか?)
接続詞「とはいえ」の独立
これはそもそも接続助詞的な用法しかなかった「とはいえ」が、そこから離れて接続詞としての自我を確固たるものに作り上げている過程と見ることができないでしょうか。
「~とはいえ」のもともとの形はおそらく「~とはいえども」ですよね?
つまり、「と」「は」「いえ(いう)」「ど」「も」のようないくつかの成分要素が合わさってようやく逆説的意味を表現できていた表現が、「とはいえ」単独で逆接を表す語として登録されつつある、と。
「おはよう」がもともとは「お早く~ですね」という意味だったものが、ただの朝の挨拶に変わったとの同じようなことですね。
逆接の接続詞は、もともとは接続助詞的だったのが独立したものが多いでしょう。
時間がなかったのだが…(接続助詞)
時間がなかった。だが…(接続詞)
時間がなかったけれども…(接続助詞)
時間がなかった。けれども…(接続詞)
接続詞の用法が先にあったということはまずありませんよね?おそらく昔は「だが」とか「けれども」を接続詞としては使わなかったんじゃないでしょうか。でも接続助詞的に多様されているうちに接続詞として独立しはじめたと。
そういった意味で、「とはいえ」のアクセントが変わるのは「とはいえ」が接続助詞の影響から抜けて独り立ちしようとする時の自我の芽生えの現れなのではないでしょうかと申し上げたいのです。
なぜ2つのタイプがあるか
理由はさておき「とはいえ」は最近新たなアクセント型を持つようになったわけです。繰り返しますが、「平板型」と「中高型」(?)です。
平板型に変化するのはわかります。それは昨日のエントリーでも言及しました。ある単語を平板型で発話するのは楽だし、「っぽさ」が出るという話でした。
でもここでは「中高型」も出てきているんですね。ならば、推測するに以下のような順番なのかな、と思います。
頭高→中高→平板
順番に言ってみます。
なんかドラクエの呪文みたい(ホイミ、ベホイミ、ベホマズン)になってきました(笑)が、私の考えでは、普通であればいくら「とはいえ」に自我が芽生えても「中高型」止まりなのではないでしょうか。接続詞、特に逆接の接続詞は、論理の転換点ですからできるだけ目立つほうがいい、つまりアクセントの格があったほうがいいですよね。だから通常なら「中高型」でおさまるべきなんです。
でも、それが「っぽさ」を出すための平板化の世界的な流れに乗って、ある特定の人やグループでは「平板」まで進んでしまうと。
結論
で、結論ですけど、いや、結論はありません。ごちゃごちゃ言いましたが、私が言いたいことは、以下の一言です。
「とはいえ」のアクセントが変わりつつあることにびっくりした!