うちの小4の次男は、去年のクリスマスにFC24というサッカーゲームをサンタさんにもらいました。任天堂スイッチのゲームです。
私は普段ゲームとかあまりしないんですけど、サッカーゲームならその世界観の学びから入る必要はありませんし、何をすべきかはよくわかっているので抵抗なくゲームに取り組むことができています。ここ数週間は息子と対戦を楽しんでいます。
宣言的知識と手続的知識
私がサッカーゲームを通して痛切に感じているのは「宣言的知識」と「手続的知識」の違いです。
一応整理しておきますと、この二つの知識は第二言語習得などの文脈でよく言及されるものでして、
宣言的知識は、事実や原理・概念などに関する知識で、意識的に理解されていて、多くの場合言語化することができます。「三角形の面積の求め方」とか「中国の首都は北京である」とかいった知識のことです。
一方、手続的知識は、「やり方」についての知識です。意識的に言語化ができないことも多いですが、その知識を使って行動ができます(以上、外部ブログ「旅する応用言語学」を参考にしました)。
また以下は私がとあるセミナーで使った宣言的知識、手続的知識のイメージです。
この二つは截然と分かれるわけではなくて、接点がある場合もあります。例えばよく言われるのは自動車の発進時の動作ですね。教習の教科書?マニュアル?なんかを読むと、きっと発進時の動き方についての記述があると思います。それは「まずブレーキを踏んだまま、Dに入れて、サイドブレーキを解除して」のような明文化できる宣言的知識です。
最初のうちはそれを頭の中で思い出しながら一つ一つ動作に変えていくわけですけど、運転に慣れてくるとその手順を考えなくても無意識に一瞬で(安全に)発進に移ることができます。宣言的知識が手続的知識に変換されたわけですね(この「変換」というのは正しい表現ではないと思いますが、あくまでもイメージとして捉えてください)。
で、話が長くなりましたが、サッカーゲームをやりながら私はこの「宣言的知識」と「手続的知識」を考えているのです。
「知識」の変換
キーパーと一対一になる。絶好のチャンス。キーパーが飛び出してくる。ループシュートを打ってキーパーの頭を越えゴールを決めたいと思うんですが、「あれ、ループシュートはLとAか、Aってどこにあるんだっけ?」などと考えているとシュートを打てずにキーパーにボールを奪われてしまう。
頭の中ではわかってるんですよ。これとこれを押せばいいって。つまり「宣言的知識」は持ち合わせているんですけど、それがまだ「手続的知識」に変換されていないということです(考えないとできない)。
しかしやはりゲーム経験を積んでいくうちに、だんだんそれが考えなくてもできてくるんですよね。適切なタイミングで適切な種類のシュートを打てるようになってきます。キーパーの動きや、相手の選手の位置を見ながら、ほぼ無意識のうちにゴールの可能性の高い操作を選ぶことができるようになるということです。
言語学習も同じなんですよね。例えば私がやってるスカイプ英会話みたいなとこでは、授業中のビデオが後日提供されます。それで復習をしているときは、「どうしてこんな言い方をしてしまったのだろう」とか「こう言えばよかったな」などと思うことがしばしばです。
つまり私は自分の意図をうまく伝える英文を作る「宣言的知識」はあるんですけど、それが瞬時に適切な英文を言うだけの「手続的知識」に変換できていないのです。
瞬時に適切なスルーパスが出せないというのと同じように、適切な表現が繰り出せないわけです。
「知識」のバランス
言語の使用は、一般に手続的知識に基づくものだと言われています。しかし、外国語の授業では説明が多くなされることもあります。それはおそらく第二言語を学ぶときはそういった宣言的知識を利用した方が効率的だから、ということもあるでしょう。
それはその通りで、例えばサッカーゲームにおいても、ループシュートはLとAの同時押しなんですけど、それを自力見つけるのはなかなか難しいと思います。「なんか知らんけど触ってたらループシュートが出た、もう一度それをやってみよう」というのでは時間がかかる。それだったら初めから「ループシュートはLとAです」と教えてもらって、少しずつ練習した方が効率は良いかもしれません。
勘の良い人は教えなくてもLとAを探し出せるかもしれませんね。それは言語で言うと、第二言語の学習経験が豊富な人と似ているかもしれません。サッカーゲームやゲームに習熟している人であれば、なんとなくこの動きはこのボタンの組み合わせかな、とわかるかもしれません。
まあとにかく、自然習得に全部任せるというのもなかなか難しいということがわかると思います。文法説明は効率的に行えば効率的な習得につながるのは間違いないでしょう(その「効率」のあたりを探るのが難しいわけですが)。
チュートリアル
とりあえずループシュートの出し方がわかっても、それを無意識的に繰り出せるようにするためには練習が必要です。サッカーゲームには嬉しいことに「チュートリアル」というのがあります。もちろんループシュートだけじゃなくて基本動作から応用動作まで結構いろいろな操作方法を学べます。
で、ですねそれをやりながら気づいたんですけど、チュートリアルだけじゃなかなかうまくならないんですよ。
どういうことかというと、ループシュートのチュートリアルではずっとループシュートを練習するわけですけど、そこでうまく打てるようになっても、なかなか実戦でその練習が生かされないのです。チュートリアルのときは一生ループシュートの操作ですから、LとAを押し続けます。そしてスキルは磨かれるのですが、実戦になると急にLとAが押せない。押せてもチュートリアルのように綺麗にはできない。
だって、実戦ではループシュートに辿り着くまでにはいろいろな過程がありますから。まずはパスやドリブルを駆使してゴール前まで行かないといけないし、仮にそこまで進んでもキーパーが前に出てこなかったらループシュートを打つタイミングがありません。いざ条件が整ってもあたふたして練習のようにはいきませんしね。
やはり実践の中で練習するしかないんだな、と思いました。
ゲームにおけるチュートリアルは言語でいうと、文型練習とかに近いですよね。その文型だけを使って文を作ることをやっていると、その練習の間は非常にうまいこと文が作れるようになる。しかしいざ実践になってみると、その文型を使えばハマる!というところでその文型が作れなかったりする。
・・・チュートリアルが必要ないわけじゃないけど、やはり実践の中で使っていくしか上達の道はない、と思ったりします。
実戦・実践の反復
あともう一つ思ったのは、実戦を繰り返すことの意義ですね。
私の場合もっぱら息子との対戦ですけど、そこで息子が新しい技術などを披露すると、私はすかさず「それどうやってやるの?」と聞きます。そうやって私の操作技術知識の外延が広がっていくんですよね。
まず第一に、「こういうスキルがある」ということがわからなければ、「こういうスキル」の練習すらできないこと。そして第二に教えてもらった私が、それに何かを付け足すことによってまた新たな操作スキルが二人の間で共有されること。
これは言語で言うと、インターアクションの意義とか、協働学習に置き換えられていくものかもしれませんね。
あと、付け足すとですね、主に息子と対戦していますが、PCと対戦したこともあります。レベルはこちらで調節できるんですけど、最強のレベルにするととても私では太刀打ちできません。昔のゲームなんかはある程度極めてしまうとPCは相手にならなかったりしましたけど、今はそうでもないということですね。AI相手でも十分に意義深い練習ができます。
まとめ
というわけで、サッカーゲームをやりながら考えたことを書いてみました。結論めいたものはないですけど、サッカーゲームと第二言語習得は結構近いものがあるなと思いました。サッカーゲームに関しては以下のように言えると思います。
・操作方法を知識として持つことで効率的にスキル習得のための練習がおこなえる
・しかし知識を実際のスキルにまで昇華させるには練習が必要
・練習は、集中したものでもある程度効果はあるが、それだけでは実戦では使えない
・実戦で繰り返し練習することによって少しずつスキルが習得されていく
・実戦から新たなスキルの存在を知ることができる
それを言語学習や習得と重ね合わせると、やはり私たちが知っていることと近いですよね。
・言語知識をもつことで効率的に言語習得のための練習がおこなえる
・しかし言語知識を実践で使えるレベルに昇華させるには練習が必要
・練習は、文脈のないものでもある程度効果はあるが、それだけでは実践では役に立たない
・実践で繰り返し練習することによって少しずつ習得されていく
・実践ややりとりを通して新たな表現方法の存在を知ることができる
なんか書いていたら何を言いたいのかわからなくなったのですが、一つ思ったのは、私がやっている楽器の練習も結局通底するものは同じだなあということです。結局ゲームにしても、楽器にしても、言語にしても、手続的知識を強化することに主眼がある活動だからでしょうね(機械的なやりとりを繰り返すだけが言語習得ではないという向きもあるとは思いますが、とりあえずはここではその意見は置いときます)。
以前ピアノの練習については文章を書いたことがあります。賛否両論、ツッコミどころ満載な文章ですが、よかったらどうぞ↓
🔳外国語学習とピアノ練習~文型積み上げと行動中心アプローチ~