なぜ自分の妻を「奥さん」と言うのか

投稿者: | 2020年11月23日

↑先日は他人の配偶者やパートナーをどのように指し示すか、という話をしました。

それとは別に、私は前々から気になっていたことがありました。それは自分の妻を「奥さん」と指し示すのが一般化されてきたことです。そもそも「奥さん」という言い方は、第三者や相手の女性配偶者を指し示す言葉だったはずです。ただいつからか「うちの奥さんが…」という表現が増えてきました。

それが良いとか悪いとかいうことではなく、なぜ「うちの奥さんが…」という表現が一般化されてきたのか、その背景や事情を考えてみたいと思います。

ウチとソトの崩壊?

私は自分の配偶者のことを第三者に話す時に「妻」という言葉を使うことが多いです。「うちの妻が…」と。そして第三者や相手の女性配偶者のことは「奥さん」と指すことが多いです。ですから、ウチソトの関係として、

【ウチ】妻、【ソト】奥さん

という使い分けをしていることになります。これは他の家族の呼称でも同じでしょう。例えば父、母について言う場合は「うちの父が…」「○○さんのお父さんは…」となります。つまり、

【ウチ】父、【ソト】お父さん
【ウチ】母、【ソト】お母さん

ですね。でもこれは規範であって、それを破る人もいます(破るというのは言いすぎかもしれませんが)。つまり、「うちのお父さんが…」という言い方のことです。特に若い人や子供などはこういう言い方をするのが普通でしょう。若い人にはあまりウチとソトの明確な区別がないからですかね。さすがに40過ぎた私が公式的な場で「うちのお母さんが…」と言えばおかしいかもしれませんが、高校生くらいであればそれほど違和感も感じません。

だから「うちの奥さんが…」というのも「ウチ」「ソト」の垣根の崩壊が原因であると一応の結論を出すことも可能かもしれませんが、これはちょっと厳しいかな、と思います。というのは、だったらその人たちは「うちの奥さんが…」だけでなく、「うちのお母さんが…」とかも使わないといけないでしょう(でもあんまり使いませんよね)。

また、その原因づけが厳しいことのもう一つの理由は、「奥さん」の他に、「嫁」という言い方もそこそこ認知されてきているという事実です。「うちの嫁が…」と言うと原則的には息子の配偶者を指すと思うのですが、近年は「自分の妻」を指す言葉として使われています。私は「奥さん」と「嫁」という2つの言い方が増えてきたのには理由があると思っています。

直接的表現の回避

私は今となっては「妻」という言葉を使いますが、結婚当時は自分の妻をなんと他人に言うか、というのが悩みのタネでした。候補としましては、

妻、家内、かみさん、ワイフ女房

というのがあるとは思いますが、みなさん考えてください。28歳の青年が自分の配偶者を何と指し示すのが妥当だと思いますか?私は当時、それがどれも恥ずかしくて言えませんでした。結果、ごにょごにょとごまかしたり、「うちの人」みたいな表現を使っていた記憶があります。

配偶者を指し示す言葉ってのは気恥ずかしいのです。

結局30過ぎて、仲良くなった一回り上の同僚がきっぱりと「うちの妻が…」と使っていたので、これを採用しようと心に決めて、それ以来妻が定着したのですが、やはり初めの頃は「妻」という言い方も気恥ずかしい思いがありました。

そこで一つ仮説を提示します。

仮説:「奥さん」「嫁」はその気恥ずかしさを回避する言い方である。

その仮説を支持する一つの事実を提示します。例えば、みなさんが未婚で、恋人がいるとします。第三者にその恋人を指し示すとき何と言いますか?おそらく最も多いのは、

彼(彼氏)、彼女

ではないでしょうか。でもよく考えてください、「彼」や「彼女」って三人称の代名詞ですよね。なぜそれが恋人を指し示すことになっちゃったんでしょうか。やはりそこには、「私の恋人が…」「おれのガールフレンドが…」と呼ぶ気恥ずかしさを回避する気持ちがあるからではないでしょうか。

つまり、日本語では恋人関係や夫婦関係にあたる人を直接的に指し示すのが難しい=気恥ずかしいという背景があるような気がします。

他の場合でも

しかしですね、よくよく考えるとこれは恋人関係や夫婦関係の場合だけではないと思います。

例えば一人称に悩む男性も多いのではないでしょうか。私は、日頃「わたし」「ぼく」を使い分けていますが、時々面倒になるときがあります。また昔の友だちに会えば「おれ」を使いますし、不特定多数に向けて発信するときでも一人ごとであるということを強調するために「おれ」を使うことがあります。また、息子に対しては「とーちゃん」という言葉も使います。

つまり日本語の一人称は相手との関係によって決まるということですよね(こんな当然のことを言ってすまない)。だから相手との関係が定まらないと自分を指し示すことさえ難しいんですよね。おそらくこれは私だけではないと思います。そしてそれを避けるためには2つの方策がとられます。

①自分のことをいつでも同じ表現で指し示す。
②自分を指し示さない。

①はみなさんの回りでも何人かはいるはずです。誰に対しても「おれ」とか「わたし」という人。②はつまり、「私は…」を省略するということです。これ、みなさんもよくやっていると思います。てか日本語ってはそういう言語です。「昨日友達とあったんですけど…」と言えば、主体は「私」というのは誰でもわかります。

また指し示すのが難しいのは一人称だけではなく、むしろ二人称ですね。「あなた、君、お前」とかは一定の年齢になったら使わなくなるのではないでしょうか(私は自分の息子に「お前」と言いますが)。

そしてその相手を呼びつけるのが難しいことを裏付けるように、日本語には一人称から二人称にスライドした言葉が数多くあります。

自分、手前、僕(子供に対し)、ワレ

そもそもこれは自分を指し示す言葉だったわけですけど、それがいつの間にか相手を指し示すときにも使えるようになりました。

関係性を消し去る

つまり、ここまでの議論をまとめると、日本語ってのは役割語などで誰かを指し示すのが非常に難しい(気恥ずかしい)言語なんですよね。それは指し示すには関係性がはっきりしていないといけないから。

だから関係性がはっきりしてる場合には特に問題ないんです。私が息子を「お前」と呼ぶとか、会社のトップを社内で「社長」と呼ぶとか。でもそれがあやふやな場合は省略したり、回避したりする、それかもしくは他の無色の言葉で代用する。

その無色の言葉、つまり関係性の濃淡がはっきりしないような言葉はつまり第三者的な言葉にもなるわけで、それが「奥さん」であったり、「嫁」だったりするのかなと思いました。まあもちろん自分の配偶者は関係性としてははっきりしているわけですが、配偶者というのは配偶者じゃなくなることも往々にしてありますし、自分たちが勝手に決めた関係性を「妻」とかいう確固たる言葉で断定するのが気恥ずかしかったり、難しかったりするのかな、と思いました。

まとめ

というわけで、自分の配偶者を「奥さん」「嫁」と呼ぶ問題について考えてみました。

グダグダ言いましたが、結局は「気恥ずかしさ」を回避するために客観的表現になるというのが一言で言った時の回答かと思います。

女性の場合についてはどうでしょうか。やはり「亭主」とか「旦那」とか「主人」とかいうのは気恥ずかしさがあったりするものなのでしょうか。

まあ、この問題については「唯一絶対の答え」というのは存在しませんので、みんなそれぞれ考えていくとおもしろいかもしれませんね。

※ちなみに、私は長い間韓国にもいましたが、韓国語でもこの「配偶者を指し示す表現」には苦労しました。結局「チbサラm」=「うちの人」という言い方を採用しましたが、ここに行き着くまでの道のりにもほとんど日本語で妻に行き着くまでと同じくらいの葛藤がありました。おもしろいもんですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です