二者間での使用言語の決められ方〜コミュニケーション言語決定理論について〜

投稿者: | 2024年3月5日

しばしばこういう話を聞きます。

(外国人的な人が)私は日本語で話しかけているのに、日本人には英語で返される

よくある話だと思います。またそういうことに対しては「日本語で話しかけられたら日本語で返すのが礼儀である」とコメントするのが、まあ一般的・常識的な反応かと思います(特に日本語教育界隈では)。

特にそれについて反対意見を唱えるものでもありませんが、この問題についてはもう少し丁寧な考察が必要かと思いますので、以下つらつらと書いていきます。

カンボジアでの体験

以前カンボジアに住んでいたことがあるんですが、私も似たような経験をよくしました。私は地元の言葉であるクメール語を学んでいたので、機会があればそれを使いたくてしょうがない。でも私が市場なんかで「いくらですか?」とクメール語で聞いても、「ナイン・ドラー(9$)」などと英語で返されることはよくありました。

それを私は「英語にスイッチされる」と表現していましたが、やはり英語にスイッチされるのはそんなに嬉しいことではありませんでした。なぜなら

・クメール語での会話の練習ができない
・私のクメール語が見下されていると感じられる(まあ見下されてしかるべきなんですが笑)

からですかね。ただですね、少しずつ考えが変わってきました。その理由は以下の2点です。

・言語選択権は話者にある
・使用言語の決定にはちゃんとしたメカニズムがある

ということがわかってきたからです。以下、そのことについて詳述しましょう。

言語選択権は話者にある

私は(レベルはともかく)複数の言語を話しますが、基本的に何語で話すかは自分で決めます。というかこれは侵されてはいけない原則かと思います。応答の義務がない場合には(義務がある場合はあまりないとは思いますが)何語で話そうが、そもそも返答をするかしないかもその話者の心次第でしょう。

と、原理的なことを書きましたが、まあ普通は相手との関係や状況を見ながらお互いにコミュニケーションが取れる言葉を探っていきますよね。義務がないから返答しないとか、そういう人はごく一部でしょう。そういう例外はとりあえずおいといて。

で、何が言いたいかというと、クメール語で話すのも、英語で返すのもそれは個人の自由です。そもそも語学学校でもない限り、相手の外国語の練習に付き合う道理や義理はありません。相手が何語で話してきても、自分が使いたい言葉を使えばいい。

私の場合も、もしかしたら相手だって「英語の練習がしたかった」のかもしれませんし、仮にそうだったとしても誰も責められるべき人はいません。

言語選択のメカニズム

とは言いましたが、おそらく「カンボジア人が私のクメール語に対して英語で返答をしてきた」多くのケースは、「(私の)クメール語が下手そうだし、英語で返した方がやりとりがスムーズにいくだろう」という了見に基づくものだと推察されます。

ちょっと表で考えてみましょう。これは相手からみた両者の言語能力をイメージで数値化したものです(表1)。

表1相手
クメール語力210
英語力5

相手は私のクメール語での発話を聞いて、瞬時に私のクメール語習得レベルを判断しました。そしてクメール語レベル「2」と見積もりました。相手はクメール語ネイティブですから「10」の能力があるわけですが、2+10で12のコミュニケーション度が達成されるわけではありません。言語でのやり取りは低い方の能力値がそのままコミュニケーションレベルの到達度になります(知らんけどそういうことにしときましょう)。つまりクメール語で話をしたら「2」のレベルでしかコミュニケーションが取れないということです。

しかし、私は英語で一言も話していませんから、私の英語力など相手はわからないわけです。でもおそらく「東洋人だからどのくらい英語ができるかはわからないけど、まあクメール語よりはましだろう」という経験による予想をしたのでしょう。

仮に私の英語力が「3」だとしても「7」だとしても、それはどっちでもいいわけです。私のクメール語レベルの「2」より上であれば少なくともクメール語よりは、両者の間で高いレベルのコミュニケーションを達成できるのです。

実際、私の英語力はクメール語力よりは上だったので、この相手の推察は正しかったと言えます。つまり相手のカンボジア人は「英語で返答することによって、より高いレベルのコミュニケーションを取ることに成功した」とも言えます。結果的に合理的な行動をとったのです。

一方で、カンボジア滞在の終盤になると、クメール語で話しかけてもスイッチされないことも少なくありませんでした。以下はその「スイッチされなかった時」の相手目線の言語レベルマトリックスです。

2相手
クメール語力310
英語力2

「いくらですか」とか「もっと大きいサイズはありますか」とクメール語で聞いた時点で、相手が私のクメール語力を「3」と見積もり、自身の英語力「2」よりも上である、と判断したのでしょう。もしかしたら私が英語の達人である可能性もありますが、それは関係ありません。本人の英語力が「2」なのですから。クメール語で話せば「3」のコミュニケーションレベルは確保されますので、そのままクメール語で会話が進んだと考えられます。

以上のように、二者間でのコミュニケーション場面において、何の思惑もなく、条件もなく、ただ単にできるだけ最小の努力で必要なコミュニケーションを達成すべき場合(つまりほとんどの場合)には、以下のようなプロセスから使用言語が決められると言えます。

①共通して話せる言語を探る
②その言語別にお互いのレベルを比較考量する
③両者の言語能力のうち低い方のレベルが最も高い言語が選択される

※③がうまく言語化できないので、よい言い回しがあればぜひ教えてください(この記事を最後まで読めば③の意味はわかると思います)。

この①〜③を今日から

コミュニケーション言語決定理論

と命名することにします(実は私が知らないだけでこういう理論があったら後で訂正を入れます)。

コミュニケーション言語決定理論を事例で解説

ケース:中国のとある窓口でのこと。中国語で最初会話を始めたが、最終的には韓国語で会話が行われた。

まず最初の言語能力マトリックスは、以下の表3のようになるでしょう。

3相手
中国語力210

中国ですから私は中国語でトライしますが、にっちもさっちもいきません。私が外国人だから相手としては英語対応もありとは思うんですが、おそらく英語はそんなに上手ではないのでしょう。私の英語力を探ることもしません。

しかし、そこで私が韓国の旅券(妻の)を手に持っていることに気づいた相手は、

①共通して話せる言語を探る

を始めます。中国語で「韓国語は話せるか?」と聞いてきました。私は「はい」と答えて、韓国語での会話が始まります。

②その言語別にお互いのレベルを比較考量する

のフェーズになりました。一言二言交わした後の私の見立てが以下の表4。

表4相手
中国語力210
韓国語力74

そして、

③両者の言語能力のうち低い方のレベルが最も高い言語が選択される

に至ります。この場合は低い方のレベルは、中国語は私の「2」、韓国語は相手の「4」で、韓国語の方が高いわけですから、晴れて韓国語がコミュニケーション言語として採択されるに至ったということです。

・・・まあ実際には相手が「韓国語できるの?」」と聞いてきた時点で、相手の韓国語は私の中国語よりは上手いという自信があったはずですから、私が「できる」と言ったときに使用言語は決まったとも言えます(私の方も中国語レベルが上だとしたら「できる」とは言わない)。

↓ちなみにこのやり取りは既に記事にしています。なかなか面白い気づきがあったやり取りだったので、ぜひ読んでみてください。

🔳使用言語による対人関係優位性の変化

冒頭のケース

というわけで、使用言語が決定されるプロセスは大体理解していただけたと思います。その上で、冒頭のケースに戻りましょう。

日本語で話しかけているのに英語で返される。

という問題でした。ここでもありがちなケースを想定してみます。外国人的な人は西洋人的な見た目、英語母語話者で日本語中級レベルと仮定し、Aとでもしましょう。Bは日本人です。

表5A(外国人)B (日本人)
英語力107
日本語力510

この表5の場合、私が上に書いた原則からすると、結果的に英語で会話がなされたとしても、Bは合理的な選択をしたと言えます。Bが日本語学校の教師でもない限り、責められることはあってはなりません(というかコミュニケーションを取る上で最善な方法を選択した)。

しかし、この場合(表6)はどうでしょうか。

表6A(外国人)B(日本人)
英語力103
日本語力510

この表6の場合は、日本語が選択されるのが自然の道理です。セオリーとしては日本語に落ち着かないといけない(まあ、いけないことはないんだが笑)。

おそらく、冒頭の「日本語で話しかけているのに英語にスイッチされてイラっとする」という問題は、ここにあります。「あんたの英語よりうまい日本語で話しかけているのに、なぜあなたは日本語で話さないの?」ということですね。

表5ならBが英語で話してもAは文句を言う資格がないが、表6の場合は「おれを英語の練習に使うな!」などと文句を言う権利が出てくるということです。

あと、それとは別にこういうケースもあると思います。登場人物C(外国人・アジア人的見た目)を登場させます。

Cは「すみません」と日本語でBに声をかけます。しかしBが「May I help you?」と言ったとしましょう。その場合、マトリックスによる比較に入る前に、「いつおれが英語できるって言ったっけ?外国人だからって英語が流暢だと思ってんの?」という不満がCから出てくることも考えられます。まあ、それはひとまずおいておいて、能力比較のマトリックスが結果的に表7のようだったとしましょう。

表7C(外国人)B(日本人)
英語力37
日本語力510

この場合、日本語が選択されて然るべきなんですが、英語が選択された場合、Bが責められるべきポイントは「相手の言語能力を考量していない」という点になります。さらに悪いのは表8でしょう。

表8C(外国人)B(日本人)
英語力32
日本語力510

これでもしBが英語での会話を続けたとしたら目も当てられません。この場合にはCは文句を言ってもいいでしょう(というか相当イライラすると思います)。

結論

というわけで、コミュニケーション言語決定理論を説明した上で、

日本語で話しかけているのに英語で返される。

という問題のどこに問題があるのかについて見てきました。

結論というか、今後の我々(というか現代人)の行動指針としては、

・仮に母語で話しかけられたとしても、どの言語で返すかどうかは全的に話者に委ねられている。
・しかし自分の母語で話しかけられたのにその他の言語で対応する場合には、彼我の言語能力を査定考量した上で、もっとも適切な言語を選択する責任が生じる。

ということです。

あくまでも一般論ですよ。日本語教師とかだったら、明らかに相手の日本語より自分の外国語レベルが高い場合なんかでも日本語で対応することもあると思います(それこそ練習台ですから)。

私は、話しかけられた言語で返す、というのを基本方針にしています。まあ、私が対応できない言語はしょうがないですが。でもやっぱ日本語が最も楽ですから、できるだけ日本語で通したいと常々思っています。

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