レビュー『ポスト・コロナショックの学校で教師が考えておきたいこと』

投稿者: | 2020年7月31日

今月も#日本語教師ブッククラブに参加してきました。

日本語教師ブッククラブ

2020年7月の課題図書はこれ、東洋館出版社編(2020)『ポスト・コロナショックの学校で教師が考えておきたいこと』東洋館出版社 

日本の教育界25名の論客がさまざまな側面から「ポスト・コロナショックの学校」について考えます。名前を知っている人も何名かいました。

この本は日本の学校教育関係者には必読の本ではないでしょうか?教育の方法論に関する内容もあれば、感染対策をどう取るかという話もあるし、子どものメンタルケア・教員のメンタルケアの話もあるし、とにかく「学校」というキーワードから派生する非常に幅広い内容を取り扱っているという印象です。

海外で日本語教育に携わっている私にとって関係のある部分は「教育」くらいしかないので、実感もわかなければあまり興味のない論考もありました。それでも全体として日本の敎育界がどのような状況におかれ、教員や関係者の皆さまがどのような努力をしているのかについてはよくわかりました

以下、私がハイライトした部分について引用した上でコメントをすこしだけ書いていきます。著者は敎育界の論客たちばかりですのでどれも読み応えのある素晴らしい内容なのですが、個人的に唸らされた部分を紹介します。

敎育の平等とは?

世界的にオンライン授業がおこなわれいるわけですけど、やはり日本でも敎育の機会平等という話はよく聞きます。論客たちはどのように考えているのでしょうか。まずは熊本大学・苫野一徳氏(以下、引用部分のハイライトは私によるものです)。

行政は教育資源の「均等配分」(みんな同じ)を重視してしまうが、〈一般福祉〉の促進の観点から言ってより重要なのは、「適正配分」(困っているところにより厚く)であることを訴えたいと思います。
たとえば、PCやタブレットやネット環境が全ての子どもに揃わないから、オンライン授業はやらない、という「みんな同じでなければならない」の発想は、かえって不平等を生むことになります。持っている家庭はどんどん進むからです。むしろ、足りないところに資源を傾斜配分することで、格差縮小を目指す必要があるのです。(Kindleの位置No.180-185) 

東北大学 堀田龍也氏

このような緊急時において、平常時の発想を捨てられないことこそが大きな問題である。過剰な平等意識が「できることから始める」ことを邪魔している。そもそも、目的は学習保障であって、端末やWi-Fiの整備は方法に過ぎない。方法が揃わないうちは、揃える方向に努力するだけの話であり、方法が揃わないから不公平だということでもない。(Kindleの位置No.833-836)

立教大学 中原淳氏

緊急事態には、①完璧かつ均一を目指すよりスピードを重視した意思決定を行うこと、②優先度が高いアクションの確実な実行をしていくこと、③その上で、学生や組織にどのような課題が起こるかをしっかりと組織調査を行い把握していくこと、④必要な学生や教員には直ちに切れ目ない援助を行うことが重要になる。(Kindleの位置No.897-900)

この問題はなかなか難しい問題ではありますね。理屈としては私も上の論客の意見に賛成なのですが、全員がその意見に賛成してくれるとは限りません。「うちにはデバイスがないのにどうしてくれる!?同じ学費払ってんだぞ~」みたいな声は確実に出てきますからね。

私の職場でもオンライン授業をおこなっているのですが、公教育とは違うから簡単に実施に踏み切れたというのがあります。語学スクールのようなところですから、「オンラインでやります!」と言って、要件に合わない学生は通わなければいいだけなのです。でも公教育となるとそうは言ってられません。

いわゆる「平等」が保てない場合は、一人ひとりの状況に合わせた教育機会の提供をおこなうことが必要になってきます。それは以前私も記事にしたことがあります。要は、教師側は学びのオプションを増やすのが仕事、という内容ですが、詳しくは以下の記事を御覧ください。


東京学芸大学附属小金井小学校 加固希支男氏は、

オンラインができないことが悪いことではない」という意識をもつことです。(Kindleの位置No.2005-2006)

と言っていますし、またできる範囲で支援をするということで、

もし週に一回でも学校に来ることが許されているのであれば、とても上手い方法があります。それは「靴箱投稿」です。(Kindleの位置No.1992-1993)

などという涙ぐましい努力や解決策をも提示してくれています。

教員のケア

しかし、学びのオプションを増やすということは、教員の負担を増やすということにも直結します。そこに警笛を鳴らす論客もいます。

名古屋大学 内田良氏

これまで教育界に住まう私たちは、「子どものため」ばかりを考えてきた。だが、あえて「教師のため」を考え合わせることが、子どもに質の高い教育活動を保障することにつながっていく。(Kindleの位置No.323-325)

ほんとこれはそう思いますね。以前ある職場で会議をしている時にある人の担当コマが以上に多かったんですね。そこはやればやるほどお金になる職場だったのでその人は喜々としてその尋常じゃないコマ数をこなしていたんですけど、私は多すぎる授業を拒否しました。

あんまり授業が多いと疲れて良質のものが提供できなくなるから。

と言ったんですが、「そういう考えはしたことがなかった」という話を聞きました。まあ、その人が疲れ知らずで何時間でも授業ができる体力があるのかもしれませんがね。

東京学芸大学 渡邉正樹氏

しかし、教職員の皆さんには児童生徒同様に自分自身を大事にしてほしい。教職員が体調不良の場合は躊躇せずに休むことが大切である。もし教職員が感染者であった場合は、無理をすることで周囲に感染を広げる可能性も否定できない。教職員が安心して休めるような環境づくりも必要である。(Kindleの位置No.1307-1310)

ここに「教員ケア」に関する二つの引用をしたわけですが、全体を通して思ったのは「日本の学校教育の教員の仕事量は半端ない」と思ったからでもあります。ここでは引用しませんが、論考の中には教育論に関するものよりも「子どものメンタルケア」に関するものが多かったように思います。

子供のメンタルのケアも行い、親の虐待から守り、時勢に応じた教育方法を考え、感染対策を十分に練っていたら、そりゃ倒れますわ。学校の先生も。管理職の人はここのところのケアを十分にすべきでしょうね。教員が倒れたり感染したりということではも元も子もないですから。

思いますと、私の職場でもオンライン授業をはじめるにあたり、慣れないことなのでかなりの労働を強いられたような気がします。ただ、私達は明確に事務方と教師がわかれていたので、その全てを教員が負うことはなかったと思っています。日本の学校でも教員は敎育=授業に専念できるような方向に動けばいいなと思いました。


まとめ

さて、本の内容のごくごく一部をご紹介しました。私がこの本を読みつつ感じたことを端的に表しているのが以下の引用かと思います。

神奈川県立瀬谷西高等学校教諭 黒崎洋介氏

このように、コロナショックは、学校での「学びの意味」を喪失させ、生徒の学びと未来への希望を奪い取ろうとしている。これらは、教育問題である以前に社会問題であり、まず政府による公的支援が必要不可欠である。その上で、ぼくたち教師は、何を望み、何をすることができ、何をしなければならないのか。教師のレゾンデートル(存在理由)は、教科の教員免許状が証明しているとおり、授業にこそある。生徒が学校での「学びの意味」を実感できる授業づくりを進めることで、学びの専門家としてのレスポンシビリティ(応答責任)(2)を果たす。これこそ、ぼくたち教師が、コロナショックに抗う唯一の術なのではないだろうか。(Kindleの位置No.2513-2519)

日本の学校教員の現状から考えれば、鼻で笑われるような理想論かもしれませんが、これが一番大事なんじゃないかと思います。授業をするのが教師です。

『二十四の瞳』の先生のように、何もできない若造が何もできないがゆえに子どもの成長や発達を促進する機能を持つこともあるとは思いますが、それはあくまで二次的な機能に過ぎません。やっぱり教師は良い授業をし、学習者の学びを良いものにするのが一番の仕事です。

そんなことを読みながら考えました。

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