日本語教師と翻訳

投稿者: | 2020年9月18日

最近このような本を読みました。

柴田元幸(2020)『ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-』アルク

翻訳者として超有名な柴田元幸氏の過去の発言をうまいことまとめた本です。別に私は翻訳家ではありませんが、翻訳という活動には昔から興味がありますので、非常に期待して読みはじめ、そして期待通りおもしろく読み終えました。

この内容を紹介しつつ、最後に私のテキトー翻訳論についても言及します。

翻訳いろいろ

柴田氏はおそらくほとんど英→日翻訳ですよね。だからそこで置き換えられる日本語は普段よく接している言葉の影響を受けるということを言っています。

どうせなら美しい日本語に接してたほうがいいだろうと思うんですね。というか、テレビなんかの日本語はあまり入れたくない。(Kindleの位置No.223-224)

これ、よくわかるんですよ。基本的に日本語教師ってできるだけシンプルに語ろうとしますよね。だから何かモノを書くときも、できるだけ一文を短くしたり、難しい表現を避けたりするようになるんですよね。

それはそれでいいんですけど、以前論文を書いていたある時にも、自然に自分が「難しい概念をやさしく語ろう」というモードになっていることに気づきました。論文だけど、論文っぽくないんです。論文って普通固いじゃないですか。でも私の書いたものはやさしくて、賢そうな感じがしないんですね。でもいいや、と思って出したらジャッジの人に「表現の仕方をもう一度見直したほうが良い」というコメントを頂きました(笑)

だからやはり産出が「やさしい日本語」になりがちな日本語教師は、受容的な部分では幅広いジャンルの文章や動画などに接しておく必要がありますね。特に海外在住者はそうですよね。

以下の部分は、付け焼き刃では言葉は置き換えられないぞ、という指摘です。

所詮自分の使える日本語しか上手く文章にはのらないということを痛感するんです。【中略】だから結局、自分にしっくりくる言葉には限りがあって、それを活用するしかないなというふうに思うことが多いです。(Kindleの位置No.590-596)

これ、最近象徴的なできごとがありました。

最近「わかりみが深い」っていう表現があるじゃないですか。あれ、私は初めて見たときから非常にしっくりくるんですよね。しっくりくるから文章を書いている時にも割と自然に「わかりみが深い」が出てきます。テトリスをしていて、複雑な形がうまく凸凹にはまるように、文章に「わかりみが深い」がはまるんです。

でも一方、FBのある人の投稿をみたら、「わかりみが深いはいまいちどうもなじまない」ということが書かれていました。これはどっちが正しいとか正しくないとかじゃなくて、自分にとってしっくりくる言葉しか使えないという例ですよね。

村上春樹の小説を読むと、「あるいは」という接続詞がよく出てくるんです。そしてその「あるいは」の使い方を見て、私は「かっこいいな」と思うんです。で、いつか使ってやろうと思うんですけど、意識しないと出てこないし、「ここは「あるいは」しかないっしょ?」みたいな場面に全然遭遇しないんです。私にとって「あるいは」がしっくりきてないんだと思います。

次は、英語にはアングロサクソン系のシンプルな語と、ラテン語由来の複雑な語があるという話。

この対比は、大和言葉と漢語の対比とほぼ同じだと思います。だから、英語から翻訳する時に、getやhaveだったら「得る」「持つ」ですが、acquireだったら「獲得する」、possessだったら「所有する」と訳し分ける。(Kindleの位置No.704-706)

前もこの話は聞いたことがあるんですが、なかなか興味深いですよね。

間違っていたらすみませんが、今勉強しているクメール語にもそれがあるんじゃないかな、と思うんですね。なんかね例えば「~ピウプ」みたいな音で終わる長い語がやたらあるんですよね。テーサピウプとか、サカマピウプとか。で、大体そういう語の日本語訳って漢語なんですよ。一方よく使う具体的な動作とか概念のものって単純な音だったりするんですよね。

おそらく複雑な語はサンスクリット語とかバーリ語由来で、単純なのは純クメール語なんじゃないかと推察しています(裏はないです)。もしそうだとしたら、世界の言語って割とそういう「日常生活に密着したシンプルな土着の語」と「概念的なものを表す複雑な学問的な外国由来の語」に分かれるものなのかな、と思うんですけどどうですかね。

翻訳の真理

私は文学の翻訳をしたことはありませんが、時として「ちょっとこれ日本語にしてくれる?」的な仕事を頼まれることがあります。その時にいつも思うのが、直訳すべきか意訳すべきか、ってことなんですよね。まあそれはその翻訳の目的にもよると思いますが、なかなか難しいですよね。柴田先生は、

訳者が原文を読んだときに感じたような快感が伝わるような訳文になっていなければ、いくら正確でも意味はない。(Kindleの位置No.244-245)

いろんなことを等価で再現しなきゃいけない。もちろん意味が等価であるというのはひとつありますが、自然さも等価じゃなきゃいけない。(Kindleの位置No.309-310)

というようなことを述べられています。つまり、

テキストの意味も、受け取る感じ方も、自然さも全部等価じゃなければならない

ということですよね。ただ、他の部分で、

極論すればあらゆる翻訳は誤訳である。(Kindleの位置No.241-242)

ということも述べていますので、正確には

翻訳はテキストの意味も、受け取る感じ方も、自然さも全部等価になるように努力しなければならない

といったところでしょうか。

先日、日本語教師が主人公の一人として登場する『星月夜』という小説について書いたんですが、著者の李琴峰氏は翻訳家としても活躍しているようで、その知見が垣間見られるような記述がありました。

小説の翻訳はビジネス書や実用書のように、ただ目に見える情報を伝達すればいいというわけではない。原文に漂う特有の性質、あるいは孤独感や疎外感を、あるいは粘着性を、場合によっては そのままに、場合によっては言語の特性に合わせて作り直して、目標言語に変換しなければならない。(位置: 1,053)

柴田氏は英日や日英の翻訳、李氏はおそらく日中や中日の翻訳をやっていると思うのですが、言っているまったく同じことですよね。それが翻訳の真理なんでしょうね。

レビュー『星月夜』

テキトー翻訳

海外に住んでいると、結構翻訳頼まれますよね?私は翻訳を生業にしているわけではありませんので、基本翻訳は断るんですけど、依頼者との関係性から断りづらいものもあります。そのため、本意ではありませんが結構翻訳をやってきました。

まあ翻訳といっても文学とかそういうものはありません。例えばウェブページに日本語での説明がほしいとか、日本の会社向けのパンフレットとか、そういった感じのものでしょうか。で、そこそこ数はこなしてきたので、そういった類の翻訳については一家言あるんですよ。今日はここまで読んでくれた皆様に、特別にテキトー翻訳の要諦についてお教えしましょう

英語から日本語への翻訳をすると仮定します。嫌々おこなう翻訳を成功的におこなうためのたった一つのポイントは、

日本語を自然なものにする

ただ、これだけです。しかしこのポイントを守れていない人が多いです。以下理屈を説明します。

翻訳を依頼する方の立場に立ってください。なぜその翻訳をAさんに依頼するのでしょうか。それはAさんが考えられる中で最も適役だからです。英語と日本語をそこそこ理解し、納期までに仕上げてくれそうなのはAさんしかいない。そして大体において依頼する側は英語、日本語どちらかの言語に通じていないということが多いです。

ということはですね、依頼者はAさんの翻訳の出来をチェックできない、ということでもあります。依頼者がAさんの翻訳をチェックできるだけの能力がある場合、おそらく依頼者は自分で翻訳をやっています。

依頼者が自分で翻訳する能力がある場合でも多忙で他人に任せたいからAさんを指名するということはあり得るでしょう。しかしその場合、Aさんがおこなった翻訳を一字一句チェックすることはあり得ません。一字一句翻訳が合っているかをチェックする余裕があるのであれば、はじめから自分で翻訳をしているからです。

つまり、翻訳に誤訳があったとしても、それは発見されにくいのです。しかし時として事後、誤訳が見つかる場合があります。それはどういう場合かと言いますと、日本語がおかしい場合、不自然な場合です。

普通の人はある文章が2言語以上で書かれている場合、自分が得意な言語で文を読みます。日本人なら普通日本語を読むでしょう。そしてその日本語を読んでいて理解できない点があったとします。そうしたら原文とかその他の翻訳文に目を通してみるということをします。

そこで誤訳が発見されてしまうのです。

もし潜在的に誤訳があったとしても、日本語が自然であれば、誰も読みながら引っかかりを感じないのでそれが誤訳であることが露呈する可能性は限りなく低くなります。

例えば「村上春樹の著作」などでしたら、原文と翻訳文を比べてみよう、みたいなマニアックな人はいるかもしれません。でも、その他の多くの翻訳に関して言えば、原文と翻訳文を比べてみようなんてめんどくさいことをする人は普通いません。

だから我々が翻訳を不本意ながら引き受ける場合は、原文に忠実に訳すことよりも出てくる文を自然にすることに注力すべきなのです。そうすれば原文と翻訳文とを照らし合わせるという行為も出てきませんし、テキトー翻訳を見破られることもないのです。不自然な日本語を書くから、そこで誤訳が見つかるのです。

というテキトー翻訳論でした。もちろんその誤訳が人命に関わるとかそういった場合はそれじゃだめですけど、私は結構この手を使ってきました。「これ要らないわ」と全くの独断で文を消去したりもしてきました。それでも翻訳の結果について文句をつけられたことは一度もありません、と胸を張って言えます。

ですので、私には翻訳を頼まないほうがいいですよ、という話でした。

柴田元幸(2020)『ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-』アルク

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