レビュー『星月夜』

投稿者: | 2020年9月17日

今月も#日本語教師ブッククラブに参加してきました。

日本語教師ブッククラブ

今月の課題図書はこれです。李琴峰(2020)『星月夜』集英社

Amazonの情報によりますと、著者は台湾出身の方で、早稲田の修士課程で日本語教育を専攻されたようです。日本語教師業界に個人的に交流がある人も少なくないのではないでしょうか。ちなみに「り・ことみ」と読むそうです。

私は「日本語教師が主人公として登場する」という情報だけを知った上で読み始めました。全く予備知識がなかったのでどういったところに着地するのか全くわからなかったのですが、一つの読み物としてとてもおもしろく読めました

以下、読んで感じたこと、また周辺のことをつれづれに綴って行きたいと思います。中にはネタバレ要素もありますが、小説自体が「衝撃の展開が!」「まさかの結末!」という類のものでもありませんので、まだ読んでいない皆様の読書にそれほどは影響を与えるものではないとは思います。

台湾出身の日本語教師と新疆ウイグル出身の留学生という二人の女性が主人公です。この二人が何を考え、どのように生きているのか、その微妙な心理描写などがこの小説の見どころだと思います。

4S

内容に入る前にちょっと私事、というかエクスキューズを一つ。

私は「日常生活で自分に課す縛り」というのがいくつかあります。

そのうちの一つに、特に最近よく自分を戒めるものがあって、それを私は「議論しない4S」と呼んでいます。私が他人と話をするとき、またはブログやソーシャルメディア上で発言するときに、この「4つのS」の話題には首を突っ込まない、という掟です。その4Sとはすなわち、

政治・宗教・性・スポーツ

です。この4つについてはできるだけ自分の意見を表明しない、ということです。人によっては「何というヘタレか」と思われるかも知れませんが、私はこれ以外のことでも他人と話し合うべきものはたくさんあると思いますし、なかなか意見の一致が見られないこのような話題に飛び込んでいくほど強い信念や思想もありませんので、「口は災いの元」にならないように自分で「4S」を守っています。

でも、この「星月夜」では、この4Sのうち3つが物語を構成する上での大事な軸となっています。

政治 → 中国でのウイグルのこと
宗教 → イスラム教のこと
性 → 同性愛のこと

なので、これらのことについては、以下私は一切言及しません。

日本語教育的な内容

では、何について述べるかですけど、やはりこの小説の私の注目する切り口は「主人公の一人が日本語教師である」という点ですのでそこに言及しないわけにはいきません。以下、日本語教師的視点が記述されている箇所を抜き出してみます。

この 本が 大きくて カバンに (    )。

1 はいります 2 はいりません 3 はいれます 4 はいれません
(Kindleの位置No.9-12)

本書の始まりがこれです。JLPTの練習問題を提示して、日本語教師の主人公が「正答が2であることをどのように学習者に説明をするか」を悩むというシーンです。

これは私達にとっては非常にありふれた場面ですよね。主人公は「意思性の有無」というこの問題の要点に気づいてはいるのですが「それを初級の学習者にどう説明すべきか」という点で悩んでいるんです。これは日本語教育にちゃんと携わっている(携わっていた)からこそ出てくるリアリティですよね。ここでまず、「ちゃんと日本語教育を扱っているな」ということが頭に植えつけられます(まあ、日本語教育関係者にとっては、ですけどね)。

ちなみに、この「どう説明するか」については結局、「今説明しても学習者はわからない、レベルが上げればわかるようになる」という先輩講師の助言で終わっています。「今わからなくても後で自然にわかるようになる」ということが冒頭で語られているわけですが、これはこの小説の方向性や世界観の一種の暗喩ではないか、ということも感じました。

日本語教師的悩みを暗喩として小説に組み込むとはなんとも心にくい。この部分だけでも記事一本書けそうですが、次に行きましょう(笑)

次にもやはり日本語教師的感覚が披露されます。「こんにちは」という発話を聞いただけで…

発音における母語干渉の特徴を把握していれば、たった五音の慣用句だけでも、ある程度生徒の母語を特定できる。(Kindleの位置No.88-89)

あと、母語の特定の他に、大体の日本語レベルも推察できますよね。この感覚は日本語教師ならよくわかりますよね。

先日妻を交えて、初めて会った人と日本語で話をしていたんですが、その人はうちの妻が日本語母語話者ではないと言うとびっくりしていました。まとまった話をしていないということもありますが、私からすると「んなもん、一言聞けばわかるでしょ」なんですけどね。

↓主人公の一人がコンビニのバイト仲間と会話するシーンです。

「大丈夫、お腹あまり空いていない」【中略】今回はちゃんと常体で、それも「~ていない」の文型で言えたことに少しばかり達成感を覚えた。(Kindleの位置No.301-303)

「お腹すく」「お腹すいた」「お腹すいてる」「お腹すいてない」日本語母語話者からすれば単純なように見えますが、この使い分けができるようになるにはかなりの練習が必要ですね。ギターの練習で例えれば「Fのコードがきれいになった」みたいなポジションでしょうか。「主人公が感じた達成感」についてのわかりみが深い表現です。

↓主人公2人が接近する場面ですね。接近したいがために「敢えて」下のような質問をしているという記述があります。

「た形」の活用、「~ように」と「~ために」の違い、「見える」と「見られる」の使い分けなど(Kindleの位置No.569-570)

「ように」と「ために」とかは聞いてきた学生に思わず、「良い質問です」と褒めてやって、得意げに説明してあげたい項目ですよね(笑)。ここを敢えて質問するということで、やはり「近づくための質問」をちゃんと心得ているということがわかります。

また、そういった「日本語教育あるある」的内容に加えて、日本語教師の生活についても触れる場面があります。

夏休みと春休みには授業がないが、それはつまり収入がないということでもある。この期間は普段より仕事を沢山請け負わなければ、生活が回らなくなる。(Kindleの位置No.928-929)

主人公の一人は大学の非常勤講師ですからね。なるほど、そういう事情もあるんですね。著者もそのような生活を送ったのでしょうか。またそのために「翻訳」などで力をつけて来られたのかな、というまあ小説にはあまり関係ないことを考えたりしました。

というわけで小説に現れる「日本語敎育的記述」についていくつか抜き出しました。こういった記述が私達にはわかりやすいですけど、こういうのを日本語教育とは関係ない人が読んだらどういう感じがするのか?というのは気になるところです。「ちょっとむずかしい」とか思うんでしょうか?

例えば、これは翻訳に関する話なんですけど、

小説の翻訳はビジネス書や実用書のように、ただ目に見える情報を伝達すればいいというわけではない。原文に漂う特有の性質、あるいは孤独感や疎外感を、あるいは粘着性を、場合によってはそのままに、場合によっては言語の特性に合わせて作り直して、目標言語に変換しなければならない。(Kindleの位置No.1055-1057)

「目標言語」という言葉が出てきます。我々は日常的に使う言葉ですが、言語教育とは無縁の人たちが読んだ時にしっくり来るものなんでしょうかね?あ、いやそれがいいとか悪いとかそういう話ではなくて、「どう感じるのか気になる」ということです。

どちらにせよ、こういった日本語教育的な記述を見て、多くの人が興味を持ってくれたら嬉しいですよね。

ちなみに、今は翻訳界の大家が書いた書籍を読んでいるんですが、そこで述べられている翻訳論と↑の引用が同じようなことを言っていて、この内容はやはり翻訳における真理なんだろう、と思いました。またそれもそのうち書きます。

音声について

後で知ったのですが、劇中に出てくる論文の一節は著者の実際の修論からとっているそうです。それを見ると著者(および主人公の一人)は日本語教育の分野でも「音声」の方を専門的にやられていたようです。劇中に出てくる、主人公が執筆、発表した論文のタイトルは、

「21世紀の日本語教育における音声指導の在り方について」

でした。で、劇中の主人公の主張を簡単にまとめますと、

日本では日本語が「上手くても」、音声面で母語話者のようにしゃべれないとみくびられるから、その辺をちゃんと鍛える方策や方法を考えるべきだ

といったところでしょうか(間違ってたらすみません)。「発音はまあ、そこそこ通じればいいじゃないか」という意見に強く反対意見を呈しています。

この主人公の主張は私もある程度同意します。他の国ではどうかわかりませんが、日本語では日本語がどれだけ上手くても、発音面で外国人っぽさが出ると「馬鹿にされかねない」場面がしばしばあります。

例えばTVに出る、いわゆる「外タレ」のほとんどはかなりの日本語上級者ですが、その多くは「キワモノ」的ポジションにいます。

音声面は判断がしやすいんですよね。いくらその人の語彙力や表現力が素晴らしくても、それって内的なものですからその広さや深さをちょっとの会話で測ることは難しいんですよね。でも音声面は聞いたら「日本人っぽいかどうか」はすぐにわかりますからね。

ただ一方で、「通じればいい」というのも間違いではないと思います。外国語でのコミュニケーションにおいて「まずは通じるかどうか」が大事なことは言うまでもありません。限られた学習時間の中でいかにコミュニケーション力を上げていくかを考えた場合、音声敎育が最重要項目ではないという現実があるのも理解できます(もちろん音声教育は大事です)。

おそらく音声面で割を食うのは、日本語上級者です。日本語上級者になればなるほど音声面での日本人っぽさを追求する人が多いですよね。それはおそらく彼らの日本語力の評価に音声面が足を引っ張るからでしょう。音声面で「日本人っぽくない」ところが出ると、それだけでその他の日本語能力までもが正当に評価されづらくなる。だから上級者が発音の重要性を説くのは当然です。著者も、おそらく私より日本語が「上手」な超上級者だと思いますが、超上級者ということでそれだけ音声面で割を食ってきたのだと考えられます。

この話はまた後日書きましょう。そう、ここは本を紹介する場でした。

他にもこの本の中で音声的な記述をしているシーンは少なくないですね。

私は川を指差して、「かんだがわ」と発音して生徒に聞かせた。ついでに「かみ・た・かわ」が「かんだがわ」になる過程で生じた音便や連濁の現象について説明した。(Kindleの位置No.695-697)

(台湾人の親の名前を)日本語で発音すれば、りゅうふくき。「く」は母音無声化の関係でほとんど聞こえず、「りゅうふっき」になる。(Kindleの位置No.1301-1302)

「山川(やまがわ)」は「山の中の川」という意味だが、「山川(やまかわ)」は「山と川」という意味になる。(Kindleの位置No.1937)

日本語教師同士で話をすると、こういうことを雑談でも話しますよね。先日は「山口県」の「やまぐち」を現地の人は「頭高型」で話すという話を聞いてびっくりしたばかりでした。こういうちょっとした記述にも心地よさを感じます。

様々な仕掛け

おもしろいな、と思ったのは様々な表現上の仕掛けです。

例えば、主人公二人は中国語で会話をしますので中国語が多用されます。カッコづきで日本語訳が表示されますが、ずっと見ていると本当に二人が中国語で話している感じがしてきます。

また、他には例えば以下のような書き方。

「電車に乗ればそんな広いダイチのどこにでも行けるモンネ。ほんとにアコガレル」(Kindleの位置No.777-778)

これは日本人が日本語が未熟な方の主人公に話す日本語なんですけど、カタカナ表記の「ダイチ」「モンネ」「アコガレル」は「理解できなかった」ということを表しています。

こういうのはやはり「日本語教師視点」または「日本語学習者視点」なんですよね。

しかし一方こうも思いました。「このカタカナ表記を伏せ字にしたらどうだったんだろう?」と。どういうことかと言いますと、このカタカナの部分は主人公は「理解できなかった」部分ですけど、それを読む読者は「理解できる」んですよね。そうなると、主人公の持つ情報と読者の持つ情報の中でギャップが生じます。そこを同じにするために、

「電車に乗ればそんな広い●●●のどこにでも行ける●●●。ほんとに●●●●●」

としていたらどうだったのだろうか?ということです。おそらくね、推測ですけど、著者は一度考えたはずです。でも何らかの理由があってそれをカタカナ表記にした、そんな事情があるのではないかと思います。そのあたり聞いてみたいですね。

昔、30年くらい前だと思いますけど、北野武の映画で「あの夏、一番静かな海」というものがありました。筋は忘れましたが、耳の聞こえないが主人公なんですね。ですから手話で話します。普通映画なんかではその手話も字幕が入ったりしますよね。でもこの映画では一切説明や字幕が入らないんです。私はこの映画が素晴らしいと思いました。わからないけど、わかるんですよね。

まとめ

以上、いろいろとこの「星月夜」について書いてみました。もっと書きたいことがあるんですがあんまり長くなっても誰も読んでくれませんのでこのくらいにしておきます。

最後に何点か。

主人公の出身地の「新疆」とか「ウルムチ」という地名にノスタルジーを感じました。井上靖の西域ものとか大好きでよく読みましたし、偶然今読んでいる本もこのあたりが出てくる歴史の本でした。

死ぬまでに行ってみたいところの一つです。そして、ここでは敢えて引用しませんが、本書の中にはやはりそっちの方の情景描写が出てくるんですね。すごく旅情を駆り立てられました。ちなみに他に行ってみたいところは映画ゴッドファーザーの「シチリア島」、「蘇州夜曲」で「水の都市」として歌われている「蘇州」、森高千里が歌った「渡良瀬川」ですね(笑)

あと最後に言っておきたいのは、このような小説を日本語母語話者じゃない人が日本語で書いてくれたことに感謝の念を感じます。別に私が日本人を代表しているわけじゃないですけど、日本で働いてくれている労働者の方に感じる気持ちに近いものがあります。私自身日本語を学んでくれる人がいないとご飯食べられませんしね。

そう考えるにつけ、もうちょっと日本という国が外国人に対してやさしい国になってくれたらいいなあと思わずにはいられません。

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