デジタル機器とどう付き合っていくか!?『退屈すれば脳はひらめく』

投稿者: | 2021年5月4日

以前『スマホ脳』という本をご紹介しました。

「スマホ脳」を防ぎ、よりよく暮らすためには⁉


スマホとかIT機器の使用で脳がむしばまれていくよ
→ とは言え、スマホをやめるとかはできない
→ スマホとよりよく付き合う方法はこれです!

みたいな内容です。2010年代になって、一気にスマホが普及して、私たちはいろいろな面でその恩恵を受けているわけですけど、逆に「良くないな」と薄々感じる部分も見えてきていると思います。最近は徐々にそういったことについての研究や論考が増えてきたなという印象があります。

で、今回読んだ本はこれ↓

マヌーシュ・ゾモロディ(2017)『退屈すれば脳はひらめく 7つのステップでスマホを手放す』NHK出版

タイトル見ただけで大体論旨はわかりますよね。「スマホを手放しなさい!」という主張をするんでしょう。でもさすがに今の生活で「スマホを手放す」ことはできません。それは私以外の誰にとってもそうだと思いますが、そのあたりをどう収拾を付けて論を展開するのか、というあたりに興味がありました。

以下、三つのことに絞って本書の内容を紹介しつつ、私の解釈を述べます。この3つは私が選んだものであって、本書がこの構成になっているわけではありません。

・デジタルデバイスに人格はない
・ディープワークをするために
・退屈が創造性を生む

デジタルデバイスに人格はない

出典は忘れましたが、故・中島らも氏が「酒には人格がない」ということを書いていました。文脈も覚えていませんが、なんでも「酒のせいにするな」ということで、酒を飲んでだれか悪事を働いた場合も、その原因を酒に求めてはいけない。あくまでもそれは飲んだ人の問題である。酒自体は良くも悪くもなく、ニュートラルな存在である。

ということだったような気がします(違ったとしても、こういう意味合いで話を続けます)。

で、この本で書かれていることも、

デジタルデバイスには人格はない

ということです。

そうですよね。私もほんとスマホがないと生きられません。例えば「送金をする」「移動する」「出前を頼む」…全部スマホを使います。もちろんスマホがなくてもできますけど、スマホを使うことによって大幅に様々な労力を節約することができます。電話で出前を頼むなんてほんと一苦労ですよ(自分の住所からして伝えるのに3分はかかりそう&それで伝えても絶対にあとで「どこですか」と電話がかかってくる)。

みなさんも多かれ少なかれそうじゃないでしょうか。

そうやって恩恵を受けているスマホやデジタルデバイスに対して「脳が腐るよ」なんて言うのは何という恩知らずでしょうか。「脳が腐る」使い方をしているのは私たちであって、スマホが脳を腐らせるわけではありません。まあ、そんなの今更言うことじゃないですけど。

ある禅僧が言った言葉が本書で紹介されています。

気が散る原因は、デバイスや人間やものではない(中略)問題は心の内側にある

そして、次のように言っています。

たとえそんな世界に生きていても、自分自身の内面と向き合い、自分の役に立つようなデバイスとの付き合い方を考え出せるはず

そうですよね。時々、スマホやデジタル機器が諸悪の根源というような議論をする人がいますが、やはりデジタルデバイスには人格はありませんので、全的に使用者本人の問題としないといけないでしょう。ただ、やっかいなのはそのコンテンツの供給側は「脳が腐る」使い方をするように誘導してきたりしますからね。その魔の手に飲まれないようにしないと。

また、過度な飲酒は様々な問題を引き起こしますが、適度な飲酒はポジティブな影響を与えることもあります。それはデジタルデバイスでも同じですね。

多くのビデオゲームは脳の状態が変わるため、その点で瞑想とひじょうによく似た効果があると言われてきました。心と体を静め、マインドフルな状態を高めて現実世界に戻りたいなら、ゲームは20分がベストです

私はゲームもお酒もやりませんが、「なんでも適度に」というのはまあ人類学的常識ですからね。

「統計的には、インターネットやソーシャルメディアを頻繁に利用している人の方がストレスが高いとは言えない」ことがわかりました。テクノロジーとストレスが結びつくのは、「デジタルテクノロジーによって社会的な結びつきが強くなり、他人が経験するストレスの高いできごとに触れる機会が増えたとき」に限られる

また、↑使用時間の多寡にかかわらず、「正しい」使い方をしていれば、それほど害にもならないんですね。

要は、

大切なのは意志をもってテクノロジーを利用すること

ですね。それが難しいんですけどね。

ただ注釈として、私が一つ言いたいのは、私は割と確信犯的に無駄なものを見ているんですが、それを無駄だとは思っていません。Facebookに上がっている愚にもつかない動画とか、楽しんでみています。そしてそういう「無駄な」時間を過ごしても、特に「失敗したな」」と思うことはありません。

生産に結びつかないもの、愚にもつかないものに時間を使ってもいいんじゃないでしょうか。人間の活動なんてほとんど愚にもつかないものですよね。例えばサッカー好きの人ってたくさんいると思いますが、サッカーって言ってみりゃ、「手をつかわないで、相手のゴールにどれだけボールを入れられたか」を競うゲームですよね。そこにどんな価値があるんでしょうか。それを鑑賞することと、愚にもつかない「モラハラ男のウェブ漫画」を読むことと、どんな差があるというのでしょうか。

※誤解なきよういっておきますが、私はどちらも(サッカーもウェブ漫画も)価値があると認めているんですよ。

だらだら過ごす時間を減らしたいと本人が思うのは自由ですが、そのだらだら過ごす時間が絶対悪である、と決めつける風潮には違和感を感じます。

話が脱線しましたが、ここで確認していることは「スマホに人格はない。我々の節度の問題である」ということ

ディープワークをするために

というわけで、デジタルデバイスとの付き合いは全的に自身の問題であるわけですが、知らず知らずにデジタルデバイスに振り回されているという事実はどうにかしないといけません。デジタルデバイスに振り回されて困ることはいろいろあると思うんですが、職業人にとって最も大きいのは、

ディープワークができなくなる

ということだと思うんですよね。というか、この本に書いてました。ディープワークとは、

高い認知能力が求められる仕事に気を散らさず集中する能力

のことだそうです。仕事している間にいろいろ連絡が来ますよね。授業準備していたら同僚からSNSで連絡が入って話をしたり、そうこうしているうちに関連する仕事を思い出して、「ああ、あれを片付けておかないとな」と違う仕事にとりかかったり…そんなことは私の場合日常茶飯事です。

でね、大事なことですけど、私は割りとこの働き方に向いている、と思っていたんですよ。つまりマルチタスクをこなせるほうだと思っていたんです。でもこれは前読んだ「スマホ脳」にも書いてましたけど、

マルチタスクができると思っている人でも実際は生産性は落ちている

という研究結果があるそうなんですよ。もちろん仕事の種類にもよりますが、「高い認知能力が求められる仕事」をするときにはじっくりと集中するべきなんです。反省。

そういえば、日増しに私はせっかちになっているような気がするんですよね。

昨日筋トレでもしようと思って動画を探していていい動画が見つかりました。仮に「腹筋をつけるトレーニング」というタイトルだとしましょう。で、再生したんですが、その動画の人はグダグダと話すわけですよ。「どうも、こんにちは。今日は腹筋をつけるトレーニングをご紹介します。一緒にやってみましょう」みたいなことをいうんです。

それでイライラするんですよね。「この動画は腹筋をつけるトレーニングだということは知っている。ごちゃごちゃ言わず筋トレを始めてくれ」と思うわけです。

イライラする自分を客観的に見て、「ちょっとおかしいんじゃないだろうか」と思ったんですね。あまりにも無駄なことを排除しようとしすぎている、と。まあ筋トレは趣味活動だからいいとしても、「高い認知能力が求められる仕事」をするときには一見無駄に見えることが役に立つことがあったりするんですよね。

たぶん、いちばん大きな代償は忍耐を失ったこと。相手の話を最後まで聞く忍耐。難しい文章の複雑な論点を理解するために、一、二度ではなく三度読む忍耐。頭によぎった考えをそこそこの構想へとふくらませ、それからもっと際立ったアイディアへと開花させるための忍耐。

↑忍耐がなくなっているのは確かだと思います。

例えば、私も昔論文みたいなのを書いていたことがありましたが、参考文献とか同じものを何度も何度も読み返すんですよね。そしてそういうのを続けていくと「最初はノーマークだったけどこれはこういう意味だったのか」と気づいたりすることが何度もありました。

今はそれができにくくなっています。例えば私は今はブログを書いていますが、それはせっかちな私にぴったりだからなんですね。考えがすぐに形になる。そして自分の空間だから、批判をされることも少ない(時々あるけど)。深い考察とかはできにくくなっている。まあ論文を書くかどうかはまた別の問題ですけど、ディープワークをするために、もう少し環境を整える必要があるのではないか、ということは思いました。

例えば、組織の中で「午前中は喫緊の要件を除き、連絡をしない、会議をしない」という縛りをつけるとか。そうすると午前中は誰にも邪魔されることなく高い認知能力が要求される仕事に充てることができます。午後は会議とか、必要な連絡とかをする、いわば消化試合ですね。会議とか連絡がない場合はエクセルを入力したりするみたいな高い認知能力を要求されない仕事をしていればいいでしょう。

まあ外部の人間にそれを要求することはできませんが、外部の人には普通そこまで早いレスポンスを求めないじゃないですか。午前に来たものを午後に返すくらい許されますよね。

退屈が創造性を生む

スマホやデジタルデバイスが与える悪影響についていろいろ述べられていますけど、それは全部否定的なかたちなんですよね。「ディープワークができなくなる」とか「脳が腐る」とか「時間を奪う」とか。

それでもスマホ使用を抑制する(使い方を見直す)理由にはなると思うんですが、やはりもっと肯定的な理由がある方がいいですよね。最後にご紹介するのが、この本のタイトルにもなっているこれです。

退屈が創造性を生む

そう、スマホ使用を見直すことによって「何か否定的なことが起こらなくなる」んではなくて、「もっといいことがある」んです(と、本書では言っている)。そういう肯定的な面が強調されると、確かにスマホ使用を見直すモチベーションになりますね。

いくつか抜き出してみましょう。

たとえば、洗濯物をひたすら畳んでいるあいだは生産的じゃない気がするけど、じつのところ脳は活発に働いています。

人は退屈することで、もっと意義があることをしたいと願うようになる

すべきことが与えられていないときでも思考は止まらない。思考というのは具体的な必要性に迫られていなくても、絶えず生まれている

今はスピードの時代なので、ひとりで思索にふけるのはあまりよく思われていないけど、それこそが「創造性の糧」なんです。

退屈している人はそうでない人より独創的に考える

↑のような記述からは二点のことを確認しておく必要があります。

まず1点目。私たちの生活には近年「退屈」がなくなりつつあるというのは正しいのか?ということ。

どうでしょうか?これはみなさん同意をしていただけるのではないかと思います。昔は喫茶店で人を待っているとき、やることがなくなったらプカスカ煙草を吸っていましたが、今はスマホがあるから暇つぶしには困りません。私は退屈な時間を探す方が難しいです。

スマホを開けば、まだまだ読むべき、見るべき、聞くべきコンテンツは山ほどありますから。となると、

私たちに必要なのは、「退屈」

そもそもの語の意味を考えると、「退屈」ってのは否定的な意味しかありません。

「最近とっても退屈で、生活が充実しています」

この言葉に違和感を覚えない人はいないでしょう。でも、今は「退屈」は求めないと得られないものになりつつあります

確認すべき2点目。退屈な方が創造的になれるのか?これはどうでしょうか。

私は同意します。以前私はこんなことを書いたことがあります。

私は以前は論文を書いたりしていましたが、経験則としてうんうん唸っている時にはアイデアなどは出てきません。前提条件を頭に入れた後、考えたいことはジョギングする時などに考えてました。あと、誰だったかがプールに入って水の中で息を止めている時に考えるといいアイデアが出るということも言ってました

まあただ、この場合は「退屈」をしているというよりは、思いっきり該当事項のことについて考えているんですけどね。しかし他の作業はやっていないので、これを退屈と言えば退屈というのかもしれません。

なんだっけ、アイディアが浮かぶ4Bというのがありましたね。

「創造性の4 B」 というものがあります。アイデアが生まれやすい場所は、Bathroom(入浴中、トイレ)、Bus(バス、移動中)、Bed(寝ているとき、寝る前、起きたとき)、Bar(お酒を飲んでちょっとリラックスしているとき)の4つです。(p141)

樺沢紫苑(2018)『学びを結果に変える アウトプット大全』サンクチュアリ出版

レビュー『学びを結果に変える アウトプット大全』

やっぱこれ(退屈は創造性を高める)は正しいんですね。

私はほんとそれに反していました。トイレではいつも読む本があるし、移動中はラジオとか聞いてますし、ベッドの上では眠くなるまで読書をしています。そして酒は飲まない(笑)

おそらく一昔前なら意図的に作らなくても、退屈な時間があったんですよね。でもそれに任せていたら、私には創造的な仕事ができなくなってしまいます。確かに、最近私の創造性ってあんまりないよな、と思っていました。いろいろな仕事を上からなぞる能力は上がってきたような気がするんですけど。反省ですね。

みなさまにおかれましては「退屈が創造性を生む」に同意していただけるでしょうか。私は反省しまくり、そして退屈を求めてみたいと思いました。

まとめ

まとめは以下の引用の提示です。

ボーっとしていると、ユニークなアイディアが浮かぶことに気づいたのです。つまり裏を返せば、退屈しないとクリエイティブにはなれない。でも、今の世の中はスマホをはじめとするデジタル機器のせいで退屈する時間がほとんどない。だから、テクノロジーを手放して退屈を受け入れ、ひらめきを手に入れよう。

まさにこれだけ。これからは朝運動するときも何か聞いたりしないで、ただ運動しようかな、などと考えております。

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