世の中には2つのことしかありません。それは、
「知っていること」と「知らないこと」
です。「知っていること」の中には、「熟知していること」「ある程度は知っていること」や「聞いたことがある程度のこと」などの無数のグラデーションがありますが、「知っていること」と「知らないこと」の間には、乗り越えられない大きな大きな壁があります。
「知らないこと」は知ろうとすることができません。
しかし一方、「知っていさえすれば」必要に応じて知識を深めることが可能です。
昔は図書館に行って当たりをつけて書籍を調べたりするのが一般的でしたが、今ではライトな知識はネットで簡単に手に入りますし、ちょっと深めたいと思えばAmazonで本をすぐに買うこともできますので、「ある程度の知識」をすぐに持つことができます。
ということで、今大事なのは、とりあえず
存在を知っておくこと
自ら「知る」ことはできない
「存在を知る」ためには、当然ですが「存在を教えてくれる人や媒体」が必要になります。
みなさんが「存在を知っておくことは大事である」という最初の前提に同意してくださるのであれば、次に行うことは「教えてくれる人や媒体と関係を持つこと」になります。
小難しい話になりましたが、実務段階で考えるとそれは「先輩日本語教師とコミュニケーションをとること」「いろいろなことを教えてくれる人をツイッターでシェアすること」「有益な情報をシェアしてくれるブログの更新を追うこと」といったことになります。
当たり前の話をして申し訳ありませんが、もう一つだけ当たり前の話をします。
世の中の真理の一つとして、
何かを受け取りたいなら与えなさい。
といった類の格言があります。これに類する言葉はほんとたくさんあります。ギブ・アンド・テイクとかもよく使う言葉ですよね。
つまり、議論を非常に簡単にしますが、何かを知りたいと思ったら、こちらからも何かを差し出さないといけないということなのです。
見る人がすべて決める
では、何を差し出すかです。先日、私は実際おこなっている授業について、詳細な報告を差し出しました。
■アウトプットを中心に据えた授業(1/2) 前提編
■アウトプットを中心に据えた授業(2/2) 実践編
なかなか好評で、多くの人に肯定的なコメントを頂きました。その中の一つにこんなコメントがありました。
さくまさんの凄いところは普通の日本人なら「えええそんなのとんでもない!いえいえいえ、私のなんて~」と後ずさりしつつ断っちゃうところを、惜しげもなくガンガン紹介・公開してくださっているところ。そして「俺のコレを見ろ!すげえだろう!」という姿勢が一切見当たらないところ。さすが師匠~。 https://t.co/wgNL72Scps
— もっちー@香港🇭🇰 (@mocchee_HK) September 11, 2020
このコメントを読んで「もっちーさんは要点をよくわかっている人だな」と思いました。というのはどういう意味か? 今から名言吐きますのでメモしていてください。
差し出す内容は、優れたものでなくても良い。
↑これに尽きます。え?なにそれ、クソみたいなもの差し出しても意味ないじゃん?という人もいると思いますが、ここで重要なのは「クソかどうかを決めるのは差し出した人じゃない」からです。
その差し出されたものの価値は見る人が決めるんです。
例えば、↑のわたしの書いたものを読んで、一部の人は「まあ普通のことだよね」と思うかも知れませんが、一方で「このやり方は知らなかった!勉強になった」という人もいるんです。
前者の人に対しては何も差し出してないかもしれませんが、後者の人に対しては大きな贈り物をしています。
あなたの常識は本当に常識?
とは言え、やはりある程度レベルが伴っていないと…と思うのは人情ですよね。実際私の実践にしても、自分でかなり良いと思って差し出しました。まあ私の実践というか、私の職場の先生の実践が素晴らしいんですけどね。
しかしね、一つ実例を出しましょう。
以前日本語教師の集まりに出たときのことです。ある時ある人が、「あるICTツールの使い方についてご説明しましょう」ということを言いました。
私は黙って聞いていました。ただ、あまりにも基本的なツールのことだったので、心のなかでは「そんなこと知らない人いるのか?」と思っていました。そして2,30人ほど参加者の人がいて「ふむふむ」言いながら話を聞いているので、「一生懸命話しているから、知っていても聞いてあげているのだな、なんとやさしい人達なんだろう」とまで思っていました。
しかし説明が終わった途端、拍手喝采だったんですね。「いや~すごい!」「それは知らなかった!」「教えてくれてありがとう!」って。これは本当にびっくりしました。
この例から私が言いたいことは、
私の常識は他の人の常識ではない
ということです。
考えてみれば、そんなことはよくあります。私は数年前からブログを書いていますが、時として「こんなの読む人いるかな?」と思う記事を上げることがあります。しかし予想に反して、そんな記事が好評を博す、ということが少なくありません。覚えているのは2年前の↓の記事なんですが、
これは多くの人に喜ばれました。私にとってはQRコードを作ることは歯磨きするくらい当然のことだったのですが、「QRコードって自分で作れるんですね!」「この方法でやってみました!」といった「喜びの声」を多数いただきました。
「知っていること」と「知らないこと」のラインは人によって違うのです。そして多様化、複雑化する現代社会ではその「大体のライン」を想定することも難しいのです。
日本語教師がシェアすべきこと
というような事実から、
何でもとりあえず言っとけばいいよ、誰かの役に立つかもしれないし、万が一誰の役に立たなくてもそれがあなたの評価を下げることにはつながらないから。
と言っておきます。もちろん私も愚にもつかないことを書くこともあるとは思いますが、そういうのは普通忘れられます。忘れられて終わりです。それ以上でもそれ以下でもありません。リスクとしては、自分の時間を愚にもつかないもののために使ってしまったということだけです。でも、大体自分の時間は愚にもつかないコトのために使ってますので、私の場合はノーリスクになりますね(笑)
では、じゃあこちらからも何かをシェアしようと思った場合、何をシェアするかですよね。まあ、日本語教師であればやはり自分の実践をシェアするのが良いかと思います。全体でも一部でも。
私が先日シェアした実践ですけど、その中で実際に使った反転ビデオも公開したんですね。そしたら「反転ビデオの作り方が参考になりました」というのもありました。実践を詳細に報告するためにビデオも載せたのであって、言ってみればおまけみたいなものだったのですが、そこに「引っ掛かり」を得る人もいるんですよね。ほんとわからないものです。
以前韓国にいた時は学会誌なんかに授業の実践報告を投稿していました。でもよく言われたのが「エビデンスを示せ」というものなんですよね。で、そこでジャッジの人を納得させるために、なんか変な数字とかを使ったり、学習者へのインタビューをおこなったりしました。まあ取ってつけたようなものですよね。
まあそれは学会誌の論文だからしょうがないかもしれません。投稿すべき媒体を間違っていました(が、勤務先での評価にかかわりがありましたからね)。
でも日本語教育的に役に立つのは数字でもなんでもなくて、「私はこういう目的でこういう授業をやったんですけど、こういう印象をもちました」くらいなんですよね。それを読む人が読んで、「お、このやり方は使えそうだ」とか「この部分は使えそうだな」とかを考えるところに意味があるわけです。
隠し持っていても意味無し
あと、以前時々聞いた物言いの中に、
自分が一生懸命作ったものを、何も努力していない他の人に使われるのは嫌だ。
というのがありました。いわゆるフリーライダーが嫌だってやつですよね。私はその考えがあまりよく理解できません。他人が楽をすることによって自分の負担が増えるならまだしも、他人が楽かどうかは本質的に自分には何の関係もないことですからね。むしろ他人が喜んでくれれば嬉しいじゃないですか。
ただ、理解はできませんが、そのような考えの人がいるのは確かですし、私と考え方が違うからといって攻撃することは大人の振舞とは言えませんから、まあどうでもいいんですけどね。ただ、私はこう思います。
今はシェアするやつが偉いのだよ。
よく考えてください。積極的に自分の実践や、作った資料などをシェアしている人がいますが、その人達の完全オリジナルってありますか?
例えば、ツールの使い方とか、アプリの使い方とか、ビデオなりブログに書いてくれてほんと役に立つじゃないですか。でもその人達は別にそのツールやアプリを開発したわけじゃないですよね。ただ、こういう使い方ができるよ、とかこれをこうやって組み合わせたらおもしろいよ、って教えてくれるだけですよね。
つまり、私達の営みっていのは、基本的にアレンジなんですよね。変な言い方ですが、〇〇先生の実践がすごい、とか言っても基本的に日本語という超公共的なものを扱っており、その上で誰でもアクセスできるツールやアプリを使って、ちょろちょろってアレンジをしているだけなんですよ(まあ、それがすごいわけですけど)。
しょせん、私達は語学教師なのです。
その小さな営みの一つにすぎない資料なんかを後生大事に隠し持っていても、あんまりいいことないです。人に知らしめることくらいでしか、この業界に自分の小さな営みを還元する方法はないんじゃないでしょうか。
もちろん、それを無償で提供するのが嫌だ、ということはあろうかと思います。だったら売ればいいんですね。日本語教育コンテンツの中にもお金を出しても買いたいコンテンツは山ほどありますし、それはそれで立派なことです。
だから私が言いたいのは無償で何でも公開しなさいということではありません。ただ、その資料がお金にもならず、ただのPCの肥しになるだけであるのなら(いや、厳密にはPCの肥やしになることはなく容量を食う穀潰しにしかならない)シェアをして誰かの役に立たせる。それが誰かの役に立ち、回り回って自分のためにもなるんですよ、今日はそういう話でした。
…と私のコアな読者の皆様には「釈迦に説法」の感もありますが、上で紹介したもっちーさんのコメントが私の心の琴線に触れたのでまとめておきました。
過去にも似たようなことを書きました↓これは職場内で共有を促進するための理論武装に役立つと思います。管理者の人は必見です(笑)