日本語教師と美意識?

投稿者: | 2020年12月21日

山口周(2017)『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』光文社

私はビジネス方面には不案内で、その手の本もあまり読まないのですが、以前この著者の方がラジオ番組に出ており興味を持ちました。ちょっと前に漫画化もされたようで、ある界隈では有名な本のようです。

たまたま割引されていたので買って読んでみたのですが、非常に面白かったです。今日はその内容を日本語教師目線でどのように解釈すればいいかということを考えてみます。

私の理解

タイトルにもあるように、世界のエリートや有名な企業の経営者のような人は美意識を鍛えるということを怠っていないそうです。それは、上流階級の付き合いにおいてドヤ顔できるからとかそういうことではなくて、極めて功利的な理由によるそうです。つまり美意識を鍛えることによって、

利益を得られる

からということです。美意識というと、絵画などを鑑賞したりするようなことも含めば、楽器を演奏したり音楽を鑑賞したりすることも含みます。またいわゆる芸術のカバーする範囲でなくても例えば哲学文学に深い造詣を持つことも含みます。

なぜ芸術作品に対する理解を深めたりすることが利益を得ることにつながるのでしょうか。

本書の中でたくさん出てくるのは、サイエンス、クラフト、アートという三つのカテゴリーです。サイエンスというのは理論を表します。クラフトというのは技術です。一昔前の企業はこのサイエンスとクラフトで世界を獲ることができました。理論的に正しいことを、高い技術で実践すれば当然良いものが生まれます。ちょっと前の日本の電機メーカーや自動車メーカーなどがその代表でしょう。

しかし理論的に正しいことは誰が考えても正しいことですし、技術は精錬されれば、誰でも高いレベルまで持って行くことができます。つまりサイエンスとクラフトを突き詰めていくと皆が同じ答えに行き当たってしまうのです。そうなるとある企業とある企業の違いは価格競争などに収斂されていくことになります。

今、そしてこれから世間を席巻する企業や団体はサイエンスとクラフトを鍛えるのではなくアート部分を育てることによって他の企業や団体と違った価値を社会に提供できるようになるという理屈です。

代表的なものとしましてはやはり Apple でしょう。そして日本のメーカーで言えばマツダも例として挙げられていました。これらの企業はアート的な判断を外部に求めるのではなく内部で育て他企業との差別化を行っているのだそうです。

日本語教師にとっては

私達は別に会社を経営しているわけではありません。しかしこの本が示唆することは我々も常々考えておかなければならないことではないかと思います。

サイエンス、クラフト、アート

本書はこの三つの要素を軸に話が展開されると言いましたが、日本語教師にとってはこの3要素を自分自身の中にバランスよく保つことが大切なのではないかと感じました。もちろん日本語教師だけでなくどんな仕事でもそうだと思いますが特にここでは日本語教師に即して考えてみましょう。

サイエンス

というのは、日本語教師にとっては理論であるとか社会の流れを読む力ということになるのではないかと思います。例えば、ある日本語コースを立ち上げるにあたって、いや大げさなことでなくてもプライベートレッスンを企画するにあたっても、サイエンス部分が求められます。

学習者のニーズを把握し、どのような教授法を採用するか、どのような教科書を使うか、どのような課題を出すか、どのようにモチベーションを上げるか、一つ一つを決めていかなければなりません。その時には第二言語習得理論についての知識も必要になりますし、学習者の置かれている状況を適切に理解したり、学習者が習得すべき日本語を吟味する力も必要となります。

知識だけでなく経験ということもここには含まれるでしょう。それが日本語教師におけるサイエンスです。

クラフト

しかし理論だけで授業は成り立ちません。緻密に計算されたコースデザインや、今日案などをもとに、効果的な授業を展開する必要があります。それを実践する力が「クラフト」に当たります。

また、学習効果を高めるための ICT の利用なども適切に行わなければなりませんし、そういった様々なツールを効率よく使うための能力も求められます。1回の授業を構成するためにはこれが最も求められる能力といえるでしょう。

よく分かりませんが、上からの指示によってコマごとに授業に入る非常勤講師の人などは、この能力を高めていれば重宝されるはずです。

アート

そして最後はアートです。これは教師としての美意識ということでしょう。

例えば、過去に隆盛を極めたそれぞれの教授法などは、関わった人間の美意識なしには形成されなかったのではないでしょうか。

時代の要請や状況に合わせてどのような外国語学習が行われるべきか、どのような外国語の使い手を作っていくか、それはサイエンス的な理論も関わってくるとは思いますが、もう少し規模の大きな話です。大きな地図を描くことができないとそのようなものを生み出したり実践したりすることはできないはずです。

もちろん私たち一人一人が「オーディオリンガルメソッド」「コミュニカティブアプローチ」「ソーシャルネットワーキングアプローチ」のような時代を代表するような教授法を開発することを求められているわけではありません。しかし既存の枠を基にしてそこから一歩前に進む。こんなことをやってみたら面白いんじゃないか。こんなやり方はどうだろうか。そのような新しいものを生み出すにはやはり理論と実践だけではなくひらめきそして美意識が関わってくるはずです。

私は以前大学で自分の思った通りに授業をアレンジすることができました。その時は本当に色々なことを考えて色々なことを試してみました。その動機となるのは職業人としての義務というよりは、新しいものを取り込む時の高揚感です。

新しいアイディアは、様々な経験から生まれます。日本語教育の専門書だけを読んでいては生まれてこないアイディアです。世の中はメタファーで満たされており、そのメタファーはもちろん教育活動にも結びつけることができます。そのメタファーを自分の教育活動に結びつけられるかどうかはやはり美意識の鍛錬によるのではないでしょうか。

三つ巴の要素

というわけで日本語教師にとってのサイエンス、クラフト、アートについて考えてきました。この三つをバランスよく伸ばすことが日本語教師として職業人として求められるということはだいたいご理解いただけたのではないでしょうか。

バランスよく伸ばすというのは理想です。現実的には人によって偏りがあるはずです。

例えば大学の日本語教育学科に所属して論文を書くようなを人はサイエンスに傾くでしょう。また日本語学校などで非常勤講師を掛け持ちしているような人はクラフトに傾くでしょう。

おそらくこの二つは職業人としての基本となるものですので、第一線で活躍するような人はどちらも高い水準にあると思われます。でもいい論文を書いていい授業できる人なんてたくさんいるんですよね。その後やっぱり変わってくるのはアート的素養でしょう。

これまで私たちはサイエンス、クラフト部分を主に鍛えてきました。この二つを鍛えるだけでは競争力のある日本語教師にはなれないかもしれません。もちろん私なんかはそこそこ暮らせればオッケーぐらいなんですけれども、その先を見据える人にはやはりアート的部分を鍛える必要があると思います。その部分で差別化を図らないと。サイエンス、クラフト部分では差がつきませんからね。

まとめ

というわけで今日は山口周さんの本を読んで思ったことをつらつらと書いてみました。まあ何だかんだ言って机上の話なんですけどね。私が音楽を聴いたり映画を観たり本を読んだりするのも職業人としての肥やしになるのかなと考えました。まぁある意味エクスキューズなんですけど(笑)

皆さん考えてみてください。皆さんのまわりにそこそこ尊敬できる日本語教師の人いますか。尊敬と言うとあれですが「凄いなあ」と思う人ならいますよね。その人のことを考えてみてください。きっと日本語教育部分以外でも、何か特筆すべき項目があるはずです。

例えば楽器を演奏するとか、絵を描くとか、そういう趣味がないでしょうか。この本では言及されていませんでしたが、私はスポーツを一生懸命行うことも美意識の養成に役立つと思います。どうでしょうみなさんの周りのすごい人絶対何か一つはあるはずです。きっと美意識をちゃんと育てているから日本語教育分野でも高いレベルの仕事ができているんだと思います。私たちも美意識を鍛えましょう。

追記

私はこれまでサイエンス、クラフトという言葉は使いませんでしたが、この二つの能力の涵養は日本語教師にとって必要なことで、どちらが大切というわけでもなく両方音を高めていくべきだという考えを持っていました。まあ簡単な言葉で言うと理論と実践ですよね。最近では下のように「具体と抽象」という文をかいていますが、そこでは大体そのような話をしています。

具体と抽象

最近もう一つ違う文章を書いていたのですが、そこでは「本質的素養」という聞き慣れない言葉を用いています。

2つの素養

この「2つの素養」という記事は私自身もあまり納得がいかず、やはり思った通りアクセス数も伸びなかったのですが、この本を読んでちょっとわかったような気がしました。私がここで本質的素養と言っているのは、「アート」のことだったのです。

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