第二言語習得理論から考える効率の良い授業 ②インプット

投稿者: | 2020年8月14日

さて第二言語習得理論に適った効率の良い授業について考えています。「動機づけ」「インプット」「アウトプット」がその三本柱です。今回はおそらく外国語学習の中核をなすであろう「インプット」について考えていきます。

インプット仮説

外国語の習得にはインプットが必要であるのは常識中の常識ですが、それを決定づけたのはクラッシェンの「インプット仮説」でしょう。クラッシェンが言いたいことを簡単にいうと、

とにかくインプットだけやってりゃ外国語上達するからね。

ということです。その後、

いやいやそれは極端ですがな。アウトプットもないとあきまへん

という補正が(外から)入るのですが、アウトプットに関しては次の記事で論じることにします。とにかくアウトプットも必要なんですが、そうだからといってインプットの必要性が下がるわけではありません。

Listen more,speak less. Read more, write less

このかっこいい英語は白井先生によりますと松本享氏という英語の達人が発した言葉だそうです。会話にしても、テキストにしても、とにかく「インプット」が優先されるということです。

松本享氏につきましては私は存じ上げませんが、ちょこっと調べてみたところ戦後のNHKラジオ英会話の講師をつとめられていたそうです。

とにかく外国語を上達させるためには

大量のインプット

が必要になるということは論を俟ちません。問題はどのようなインプットを、どうやっておこなうかですね。

昔ながらの「i+1」

聞くべきものは「自分のレベル=i」よりも「+1」くらいのもの、すなわちちょっとだけ難しめが良い、というのがとりあえずの常識かと思います。

まったく歯が立たないようなレベルのものを読んだり聞いたりしても意味がないし、ストレスなくぜんぶ理解できるようなものを聞いても発展がない、ということですね。

今日たまたま私も英語の音声を聞いていましたが、聞きながら「これが私にとって「i+1」ぐらいかな?」と思いました。大体の内容は理解できる。しかしところどころ聞き慣れない単語が出てくる。で、音声だけで聞いたあとで字幕を見てみて理解できる。そんなくらいです。たしかにこのくらいのレベルだと自分の能力が開発されていきそうな気はします。

そういうわけで私達は「i+1」レベルの教材を準備するわけですが、実はこの「i+1」レベルの教材って準備しやすいんですよね。というのは教科書とかについている音声や読み物が基本的に「i+1」になっているはずだからです。とにかくそれを使っておけば「i+1」はクリアできますね。

話を「聞くこと」に限定して続けましょう。

i+1」を大量に聞かせるわけですが、例えば↓は「いろどり」の初級2からの抜粋です。

聞き取り練習です。例えば一つの目の音声ファイルでは、①フェイジョアーダという料理の「材料はなにか?」「調理方法は?」「どうやって食べるか」という3つのポイントを聞き取ります。使ったことのある人ならご存知でしょうが、「まるごと」や「いろどり」にはこの手の聞き取り問題が頻出します。

で、ですね、ある程度できの良い学習者だと、一回音声を聞いただけで「材料」「調理方法」「食べ方」ぜんぶ聞き取れてしまいます(いや、特別できが良くなくても授業のレベルについて来られている学生は大体聞き取れます)。基本的にできの良い学生は声もでかいので、先生の中には「じゃあ、一回だけ聞けばいいですね」と言って次の活動に移ってしまう人もいるのですが、ここは我慢してできるだけたくさん聞かせる必要があると思います。

まず一回目は「材料が何かを聞いてくださいね」と指示を出して、次の料理に移る。そしてぜんぶの料理をきかせたらまた最初の音声に戻って「次は調理方法がどんな感じか聞いてくださいね」と指示を出して聞かせる。学生の中には飽きてくる人もいますが、それを我慢して聞かせることが大量のインプットにつながってきます

4つ音声があって聞くポイントが3つあれば、4×3で、同種の音声を計12回聞かせることができます。これを大量と言わずしてなんと言いましょうか。

ただ、「うちはまるごと使ってないよ~」という人もいるでしょう。そういう人は自分で作っちゃえばいいんですよ。今は音声教材なんて簡単に作れます。「使っている教科書に音声教材がありましぇ~ん」とか、「あってもクオリティが低いっす」というような人は作るべきです。私はよく作ります。


気分良く楽しめる「i-1」

最近ぐっと来ているのが「多読」ですよね。これは自分の実力よりもちょっと易しめの文章を辞書もつかわず、たくさんがっと読みましょうよ、っていうものです。それの音声版が多聴ですよね。ほぼ引っかかりなく聞いていけるレベルということです。

多読・多聴の良いところは、私自身も時々しますけど「読める、読めるぞ!」みたいなムスカ的充実感があるところでしょうか。また一般には「目標言語のリズムやコロケーションに慣れることができる」みたいなことも言われますよね。

ただ、授業で扱おうと思うと結構難しいかも知れませんね。多読の方はオンラインで読めるものがまだありますが、多聴となるとどうでしょうか。やはりこれこそは教師が作るのが一番かもしれません。

そう言えば思い出したことがあります。

昔、授業の連絡とかをすべて動画でおこなっていたことがあります。学習者とはSNSでつながっていたのですが、授業に関する連絡はすべて動画で私が顔出しで話をしておこなっていました。また必要なことだけ話すんじゃなくて、「実は週末はこんなふうに過ごした」のようなどうでもいい内容を学生のレベルに合わせて話していました。これは多聴につながるかもしれませんね。

というのはですね、私は「どうでもいい内容」を話したわけですが、その内容が「どうでもいいかどうか」は聞いてみて理解できないとわからないわけですね。その「どうでもよさそうな話」の中に授業に関する「どうでもよくないこと」が含まれているかも知れませんしね。

テキストじゃなくて動画でおこなったのは、テキストだと機械翻訳にかけられて終わり、だと思ったからでした。

教師自らのしゃべりでしたら、簡単にクラスのレベルにおける「i-1」を作ることもできるし、いいかもしれませんね。

多読、多聴の市販教材の一番の弱点は「おもしろくない」ということです。だってそこにある話を理解してもしなくてもどちらでもいいのですから。それを我慢して「勉強のためだから」と続けられる学習者はかなり成熟した学習者です。私も多読とかやりますけど、内容自体に興味があることでないと身が入りません。TEDトークとかもね、自分に関心のない内容だと聞く気にならないんですよね。

とにかく「この人の言っていること、ここで書かれていることを理解したい」というのが外国語インプットの基本だと思います。多読にしても多聴にしてもどこかに「これはあなたが理解すべきことです、理解しなければなりません」というメッセージを入れて(明示的にせよ、暗示的にせよ)提示する必要があると思います。そういった意味で、教師からのメッセージというのは有用かもしれません。

これは前回の「動機づけ」にも繋がる話ですよね。

教師の発話も重要なインプット源

「i-1」の教材を教師自ら作ることができる、というのは我々が語彙や文法のコントロールをできるからですよね。初級のクラスではわざわざ単文で話したり、学習者が理解可能な語彙を使ったり、時には英単語を混ぜて話したりしますよね。

それはティーチャートークと呼ばれるものですが、白井先生はそれに対しては慎重な態度が必要、時として「習得に必要な言語材料を学習者から奪っていることになる」といったことを言っています

「教室では既習語彙しか使ってはならないという方針の学校がある」みたいな嘘みたいな本当の話が時々聞こえてきますが、それはやはりおかしいような気がします。もちろんある程度の語彙コントロールは必要でしょう。初級の最初の方の学生に対し、普通に日本人に話しかけるように話しても何も伝わりません。わかりやすく話すことは大事ですがあまりにも原則的にならないことが必要だと思います。

今日の授業で、最後に「疲れがとれる」ってどういう意味ですか。と聞かれました。それはその日の学習語彙の中にはなかったのですが、私がふとした瞬間に口にした言葉を学生が覚えていてしてきた質問でした。その質問をしてきた学生は、その言葉を覚えるのではないでしょうか。いつまでも簡単な語彙ばかり使うのではなくて、少しずつ確信犯的に「i+1」の表現を使っていく必要もあるかと思います。

あと個人的な経験としては、クメール語のレッスンのときに、先生が多用するフレーズがあったんですね。知らない表現だったのですが、何度も聞いていると大体意味がわかってきました。結局それは「~にとって」という意味で、これは辞書をひくことなく理解することができました。私の先生は結構その辺はわかっているようで、語彙コントロールをしつつも適度に進出語彙を入れてきます。

ティーチャートークも重要なインプット源である。「基本i-1、時々i+1」でやってみようということでいかがでしょうか。

習得順序

外国語の習得順序って大体決まっているみたいなんですよね。例えば英語のことでいいますと、三人称単数のものが主語で、時制が現在形場合、動詞にsがつくじゃないですか?あれって中1レベルで習うことですけど、実際にはそんなに簡単に身につくもんじゃないんですよね。理屈としては簡単です。ルールとしては理解しやすいです。でもある一定のレベルにならないと身につかないらしいです。てか私も英語話す時に全然意識できていません(笑)

まあ、これはわかりやすい例なんですけど日本語でもそういうのが当然あるんですね。ソースは忘れてしまったんですけど、例えば「形容詞の過去否定形」というのは初級の早い段階では身につかないらしいです。

みなさんもこれ経験則として知っているんじゃないでしょうか。

「旅行どうでしたか」
「おもしろくありませんでした」

って初級の学生がペラっと言えることってないですよね。でも一応文法秩序を示すために、形容詞の過去否定の形って初級の早い段階で出てきたりします。でもね、三単現のsと同じで教えても身につかないんです。だったら教えなくていいんじゃない?それか気になる人もいるかもしれないから提示はするけど練習はしないでいいんじゃない?と思います。

以前韓国で教科書を作ったことがあるんですが、韓国人学習者にとって難しいものは全部省きました。韓国人学習者にとって理解のしやすいものを優先して入れて、教師が説明しにくいもの、直訳では意味がとりにくいものは積極的に外すことにしたんです。

それでよくないですか。

それである一定のレベルまで我慢して学習を続けたら、特に新しく習わなくても自然に覚えられることもあるんです。

で、それがインプットにどう関わってくるかといいますと、ある程度レベルが上がってくると生教材を聞き取りや読解に使うことが出てきます。レアリアっていうんでしょうか。全部理解できないからってそれを使わない手はないと思うんですね。教師自身が「核となる部分だけ理解できれば良し」という態度で臨むと学習者もそれに乗ってきてくれます。

例えば、まるごとの初級1だったと思うんですが、気候について「あたたかい」「雨が降った」くらいの語彙で話すところがあるんです。そこで「OK Googleで世界の天気を聞いてみましょう」みたいな練習をしたことがあります。

みなさんも今OKGoogleできたらやってみてください(iOSのsiriみたいなもんです)。「プノンペンの明日の天気を教えて」などというと、「最高気温32度、最低気温25度で場所によっては雷雨でしょう」などと返してくれます。

「最高気温」「最低気温」って言葉はわからないでしょうが、数字はがんばれば聞き取れます。数字が聞き取れれば意味するところはわかりますよね。でも「雷雨」はこのレベルで教えてもしょうがないかなと思います。教えるならその前に「カミナリ」でしょうね。

とにかく、全部を理解できる必要はない。聞き取れるところを聞いていこうという態度で行ったらどうか、と言っているのです。そして、その方針でいけばかなり早い段階から生教材を使えたりします。どうせ難しいことはレベルが上がらないと覚えないのだからという態度を持つということですね。

インプットをしやすい環境

たとえば「まるごと」や「いろどり」などは誰でも自由に音声ファイルを聞くことができます。でも自分で公式サイトに行って復習や予習のために音声ファイルを聞く人ってどのくらいいるだろうか、と考えると多分かなり少ないんじゃないかと思います。

もちろんそれをやるかどうかは学習者本人の選択ではあるのですが、教師の仕事の一つとしてはその環境の整備というのもあるのではないかと思います。

例えば、わたしたちは学生との連絡にFacebookを使っているんですが、Facebookに資料を添付するときでも例えば授業で使っているから、ということでWordファイルをそのまま添付しても見にくいし、誰も見ないんじゃないかと思います。でもそこでWordファイルを画像ファイルに変換しおいて添付すれば、学習者はスクロールをしている時に目に入りますので、その資料を見る可能性が高まるのではないでしょうか。

何かを見るのにダウンロードが必要だったり、そのプロセスが複雑だとそもそも学習者の目にも触れなくなるかも知れません。実際私も、接続のためのステップが多いものは面倒で遠ざけてしまうことがあります。

だから学習者目線で、「アクセスを容易にする」「一覧性を高める」という努力は必要だと思います。その延長で、どういったLMSを使うか、機能はいいけど学生全員に新たにアプリを入れさせないといけないとか、そういったものを使う時はよく考える必要があると思います。

教室のすぐ横が大通りに面していて騒音がひどかったりしたら、その対策を考えますよね。窓を二重窓にするとか。教室の電気が暗かったら明るいものに変えたりとか。それと同じで学習者にはできるだけ容易なアクセス環境を作ってあげるということも考えるべきでしょう。もちろんそれを突き詰めたら、読み物などは紙のコピーの方が使い勝手が良いということも十分ありえます。別に全部電子的に用意したほうが良い、という話ではありません。

「読む」より「聞く」?

というわけで、インプットに関連のある話をしてきましたが、どうしても話が口頭コミュニケーションに寄りがちですね。インプットには「聞く」もあれば「読む」もあるはずなのに。

多分、その答えは、上でも少し言及したんですが、読む方に関しては機械翻訳でカバーできる面が多いからというのがあると思います。テキストでのコミュニケーション(読み書き)は基本的に時間差のコミュニケーションですので瞬発性はそれほど重要視されません。本や情報は自分のペースで読めますし、リアルタイムのテキストメッセージのやりとりも口頭コミュニケーションよりはインプットからアウトプットまでの時間を自分のペースで取れます。

でも歩いていて看板とかの文字が読めなかったらどうするの?ってのも、例えば最近ではGoogleレンズとか使えば一発でわかりますからね。あ、余談ですが、最近プノンペンのレストランに行ったらメニューの最初のページにQRコードが言語別についていました。そこにアクセスするとそれぞれの外国語でメニューが見られるんですよね。いいアイディアだなと思いました。

また、うちの妻は中国語全然できないんですけど、同じアパートに住む中国人の友だちとテキストで会話しています。お互い自分の母語でテキストを入力してるんですが、瞬時に翻訳がなされるんですよね。細かい話はできないかもしれませんが、それで普通に交流が成り立って一緒に食事とかしているんですから大したもんです。ただ、「直に話す」というのは翻訳機を介すのは難しい、というかまどろっこしいようで、やはり口頭コミュニケーションについては勉強をしています。

この流れは今後更に加速していくでしょう。機械翻訳の精度が上がれば上がるほどテキストの読み取りの必要性は下がる。しかし、口頭コミュニケーションを直接したいという欲求は時代が進んでも変わらないと思います。

もちろん、その人の学習目標によるのはいわずもがなですが、特別な学習目的がない限り今後の敎育は口頭コミュニケーション中心に進んでいくのではないでしょうか。特別な学習目的というのは「日本文学を原書で読みたい」とか「日本の大学で日本語学を学びたい」とか「JLPTでN2をとる」とかですかね。

あ、もちろん読むことが日本語能力向上に寄与しない、という話ではありません。口頭コミュニケーション能力を高めるために読むというのもあり得ると思います。漢字を手書きするシーンは少ないけど、読めるようになるために手で書く練習をする、というのも同じですね。「読む」ことによって語彙力も高まるでしょうしね。「読むことは必要ない」という主張ではありません。ただ、口頭コミュニケーション能力の高さに、より一層価値がおかれるようになるだろうということです。

まとめ

さて、第二言語習得理論に沿って「インプット」を考える予定でしたが、着地点はだいぶ変なところに落ち着きましたね。申し訳ない。

一応当初の目的にそって結論を出しておきますと、

・「i+1」と「i-1」を組み合わせてできるだけインプットの量を増やす
・インプットにはメッセージ性をどうやったら含ませられるかを考える

生教材を使う方法を考える
・良い教材を準備してもアクセス性が悪いと意味がない
・今後は口頭コミュニケーション能力の重要性が高まる

ということですかね。長い時間お付き合いくださりありがとうございました。

次回は最終回「アウトプット」です。


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