自己評価の高い学習者がいる理由

投稿者: | 2020年12月14日

時々極端に自己評価の高い学生がいます。教師としては、言葉を選んでその学生の実力に合ったクラスを薦めるのですが、「大丈夫」と言い頑としてその助言を受け入れないことがあります。皆さんもそんなことは、一度や二度ではないのではないのでしょうか。

学習者の気持ちも分からないではありません。特にもう一度同じクラスを受講することになった場合、モチベーションが下がるというのも理解できます。自分の実力のなさを認めた上で、「頑張るので上のクラスに入れてほしい」と嘆願する人もいます(そのようにしても、ほとんどの学生はついて来られないわけですが)。

今回は私の外国語学習経験に基づき、「なぜ自己評価の高い学生が存在するのか」について考えます。

そもそも自己評価は高い

基本的に人間は他者からの評価よりも自己評価が高いものです。もちろん中には、客観的に自己分析をできる人もいますし、必ずしも全員が全員そうというわけではありません。ですが往々にして「自分の考えは他人の考えよりも正しい」し、「自分の評価は他人からの評価よりも高い」ものです。

これはその人の性格にも関わってきますが、同じ人でもその評価を下す分野によってはばらつきが生じると考えられます。例えば私が「日本語教師としての自分の能力」を評価する際には、おそらく「自己評価よりも他人からの評価の方が高い」と考えられます。一方で、私が「自分のファッションセンス」を評価する際には、反対に「自己評価が他人からの評価よりも高くなる」と考えられます。

どういうことかと言いますと、私は「ファッション分野」よりも「日本語教育分野」に深くコミットしているからです。よく知っている分野の方が、その分野の深さや奥行きがよくわかるため自分の能力を過小評価する傾向になります。簡単に言うと、

無知の知

ですね。知れば知るほど自分の無知を知るようになります。

ここまでの話をもう少し一般化しますと、

知見の深い分野に関する自己評価は他者による評価より劣りがちで、知見の浅い分野に関する自己評価は他者による評価より高くなりがちだ

ということです。第一線で活躍する日本語教師の方が意外に謙虚だったりするのもそういうことだと思います。

これを日本語を学ぶ学生に応用しますと、

レベルの高い学生ほど自己評価が低く、レベルの低い学生ほど自己評価が高くなる

ということが言えると思います。もちろんこれは傾向としてであり、個人によって異なります。

受容的能力と産出的能力の違い

しかしここまで書いたことは単なる一般論です。

この一般論のみを適用してしまうと、初級レベルの学生でも自己評価が極端に高い学習者がいることは説明できません。だからそういった一般論とは別の他の要素も関わってくるはずです。

最近自分のクメール語学習経験を通して少しヒントのようなものが得られました。

私はクメール語を勉強しているのですが、日常生活でクメール語を話すことはほとんどありません。挨拶程度ですね。それでも週に一回60分のオンラインレッスンを受けています。レッスンを受けない日は、そのレッスンを録音したものを聞き直して勉強しています。主な学習方法はシャドーイングです。読み書きなどは完全に捨てています。

クメール語の実力が上がらない日々が続いたのですが、最近ふとテレビを見たり、職場で会議をしているとき、結構理解できるようになっていることに気づきました。ジブリ風に言うと、

わかる、わかるぞ!(ムスカ大佐)

のような感じです。まあ、と言っても、以前より実力が伸びたというだけで大したことはないのですが、明らかに以前よりはクメール語が耳に入るようになってきました。

しかしですね、話す練習というのはほとんどしていませんし、話す機会もありません(作らないだけですが)。なので、私のクメール語能力にはかなり偏りがあるということになります。聞き取り能力が話す能力に比べて高いということです。

まあ、これは私でなくても普通はそうです。原理として、産出的能力が受容的能力を上回ることはありません

この漢字は読めないけど書けます。
この単語は聞いても意味が分からないけど会話の中では使えます。

ということはほとんどありえないのではないでしょうか。つまり誰でも「話す能力」より「聞く能力」の方が高いし、「書く能力」より「読む能力」の方が高いものです。「異なる能力をどうやって比較するの?」と言われたら何も言えませんが、その辺はニュアンスで理解していただきたいと思います。

自己評価の高い学生は受容的能力に自信がある

しかし普通話す能力と聞く能力は、セットで練習されていきます。大学の授業でも会話の授業もあれば聞き取りの授業もあるでしょう。ですから普通の教育機関で授業を受けて外国語を身につけているような学生は、受容的能力が優位に立てども、産出的能力が極端に劣るということはないわけです(原理として)。

しかし近年では、私のクメール語のような勉強の仕方をしている人が少なくないと考えられます。というのはインプットの練習というのはアウトプットの練習をするよりも楽に実行が可能だからです。そうすると「聞き取りはかなり高いレベルで出来るのに、話ができない」という学生が量産されてしまうということも理解ができます。

私たちはその人の外国語能力を測るときに様々な基準を用いますが、最も簡単なのは「話してみる」ということです。大抵話してみるとその人の能力の輪郭がつかめます。皆さんも同じでしょう。ちょっと話せば「N3ぐらいかな?」とか「うちの学校だったら初級2のレベルかな?」というのは瞬時に判断できるはずです。

でも、受容的能力に特化した学生は、そこでは正当な評価を受けられないということになります。仮にAとB二人の学生がいたとして、Aは聞き取り能力が10、話す能力が3。Bは聞き取り能力が5、話す能力が3とします。総合的な日本語能力はAがBをはるかに上回っています。でも話す能力は同じぐらいです。そうするとAとBは「同じぐらいの実力である」と判断されてしまうことになります。

これはAにとっては納得しがたいことなのではないでしょうか。

まとめ

そういう理路によって、時々「極端に自己評価の高い学生」がいるのではないかと考えたのですが、皆さんの考えはいかがでしょうか。

受容的能力が産出的能力をはるかに上回るというのを拡大していくと、「受容的バイリンガル」のようなケースを想定することができます。一時期私の子供達がそうだったのですが、私の日本語はちゃんと理解できるのに、それを日本語で返すことができないという状態でした。


当時の我が子たちの産出的能力を考えてみると、初級の日本語学習者と変わるところはありません。しかし聞き取り能力においては、何の調整もしない私の日本語をしっかりと理解できていたわけですからかなり高かったと言えると思います。そのような学習者がいたとして、話すところだけを聞いた教師に「あなたは初級ね」と言われたら、やはり納得できない部分があるのではないでしょうか。

でですね、私の言いたいことは「受容的能力をもっと評価しなさい」ということでも、「受容的能力の高い学生は上のクラスに入れるべきだ」ということでもありません。産出的能力の差異によってレベル分けをするのであればそれはそれで構わないと思います。大事なのは、

受容的能力が産出的能力に比べて極端に高い学生もいる

ということを頭の片隅に入れておくことではないでしょうか。結果として産出的能力が低いから低いクラスに入れざるを得ないということもあるでしょうが、その辺りを理解して説明をするというだけで、学習者の日本語学習に対するモチベーションは変わってくると思われます。

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