「いろどり」の導入について

投稿者: | 2020年10月24日

「いろどり」の「入門」が11月の末に出るそうですね。

いろどり 生活の日本語

今は私も国際交流基金にお給料をもらっている身ですけど、残念ながらこの教科書にはあまり関わっていません。ただ、近くで仕事をしている同僚が「いろどり」の広報をしていますので、ちらちらと情報を見聞きしています。

「いろどり」がどういう教科書かということについてはもうたくさん出ていますので、今日は教育機関として、または個人レッスンとして「いろどり」を導入することについて思うことをつらつらと書いていきたいと思います。

意外に「難しい」いろどり

はじめて「いろどり」を見た時。

音声ファイルは豊富だし、文法説明も媒介語で書いているし(各国で翻訳作業をおこなっているようです)、絵もたくさんあるし、活動も豊富だし、しかもライセンスも緩いし、これは日本語教育の新時代が来るのではないか、と思いました。

もし、私が「日本での就労や生活」を念頭において授業をするような機関の主任とか代表者であるならば、「すぐさまメイン教材をいろどりに変えるだろう」と思いました。

まあ、まだ今の時点(2020年10月)では「入門」が出ていませんし、教育機関が培ってきたカリキュラムもあるだろうし、今すぐに変えるのは難しいかもしれませんが、近い将来「いろどりに変えるつもりです」という機関が続出してもおかしくないと思いました。

でも近隣の機関の人に聞いてみると、そんなに「いろどり」に積極的ではないところも多いんですね。なぜだろうか?と思って聞いてみると、

使い方がわからない
教えるのが難しい

というんですね。これは私としてはびっくりしました。でもそういう人、および機関は多いのです。

文型シラバスで回っている

私は「いろどり」を初めて見た時、まずまず予想通りでした。それは、私の記憶が正しければ、教科書がリリースされる随分前からトピックやCANDOステートメントが発表されており、それを見る限りでは「まるごと」と同じような体裁をとってくることが割と容易に想像されたからです。

私の所属機関では「まるごと」を使っていますから、私も「まるごと」についてはある程度知っています。また行動中心アプローチというものにも随分前から関心があったので、特に違和感を感じることはありませんでした。

私が親交のある日本語教師の大部分はオンライン上での付き合いです。オンライン上では「まるごと」を知らないとか「行動中心アプローチなんて初めて聞いた」という人はあまりいません。またリアル職場の先生とはもちろん親交がありますが、職場では「まるごと」を使っています。つまり私の周りには「まるごと」や「いろどり」に違和感を感じる人はいないのです。

でも、いろいろな人とオフラインで話していると、いかに「まるごと」や「いろどり」が認知されていないか、また行動中心アプローチというものが認知されていないかがよくわかります。

大部分は文型シラバスで回っているのです。

共存

「いろどり」は文型シラバスでのみ教えていた人にとっては、おおげさに言えば、

コペルニクス的転回

なんですね。音声や絵、説明が豊富なのはわかるけど、それをどう使っていいかわからないというのもしょうがないことです。

勘違いしないほしいんですが、私は何かが何かと比べて優れているとか劣っているとか、そういう話をしているわけではありません。文面通りに受け取ってください。文型シラバスでやっていた人にとっては「いろどり」は難しいようなのです

また、難しいというのもあるでしょうけど、大部分の現地講師の方々は、自分が日本語を習った時には文型シラバスで習っています(また日本語母語話者教師の多くも養成講座では文型シラバスで習うでしょう)。またそれを長年続けてきているわけですから、そのやり方についてのノウハウも蓄積されていますし、今更やり方を変えるというに尻込みしてしまうというのも理解できます。

そこで、「いろどり」の広報をする人はいろいろおもしろいことを考えているんですね。それは、文型シラバスとの共存です。

みん日対応表

「文型シラバス」と言ってきましたが、端的に言うとそれは「みんなの日本語」です。「いろどり」は「みん日」との共存を図っているのです。

みなさんもご存知だとは思いますが、このような「いろどり-みん日 対応表」というのがあります(↓これはおそらくベトナムの関係者がおこなった仕事だと思います。素晴らしいですね。検索したら出てきました)。

いろどり-みん日 対応表 (PDFが開きます)

↑その一部のキャプチャです。現代の日本語教育界を支えるお兄様・お姉様方には優しくない小さい文字での提供となっていますが、「みん日」の何課の文法項目が「いろどり」の何課に出てくるかが一目でわかる体裁となっております。

すごいですよね~

「みん日」をお使いの機関としては、足りない会話練習や聞き取り練習を音声ファイルや活動の豊富な「いろどり」で補強できるという売り込み方なのだと推測されます。

併用は悪くない

なかなか賢い人がいるものです。私はこのやり方は悪くないと思います。それは「みん日の牙城を崩す方法として」悪くないと言っているのではなくて、

学習スタイルに配慮する方法

として、悪くないと言っているのです。

ほんと、学習者の学習スタイルは様々です。私は何度もこのブログでそれを論じているのですが、教師はできる範囲内で個人の学習スタイルを尊重すべきですし、機関もできる範囲内で学習方法のオプションを一つでも多く提供すべきだと思っています(難しいのは承知の上ですが)。

で、この問題に落とし込むとですね、語学教育においてはやっぱり「文法を積み上げていきたい」という層は確実に存在するんですよね。私との関わりで言いましても、カンボジアの日本語教育現場では「文法をしっかり学びたい」というニーズがわりかし多いような気がします。

そしてそれとは別に、「とにかく実践的な練習をしたい」「とにかくコミュニケーションをとりたい」という層も同時に存在します。

この「共存」はその2つの異なる学習スタイルへの配慮という意味でとても良いと思うのです。もちろん、学習時間には限りがあって、2つを使っている暇などない、ということもあろうかと思いますが、それはそれとして苦肉の策として生み出された「共存売り込み戦略」は語学教育の在り方として悪くないのではないかと思っています。

もちろん教育機関は、目的に合わせて教材を選ぶべきですし、その目的によっては「みん日」が合わない、「いろどり」が合わないということは起こり得ますよね。でも、初級レベルでは学習目的が多少違っても、「みん日」的要素も、「いろどり」的要素も必要になってくることが多いのではないでしょうか。

まとめ

というわけで、「いろどり」と「みん日」の共存戦略はなかなか好きです、ということについて書いてきました。とにかく学べるオプションがたくさんあるのはいいですよね、という話です。

何度も言いますが、私はどちらが良くて、どちらが良くないという話は一切していません。別にわざとその問題について沈黙を保っているわけではなくて、それはやはり目的に応じて教材は選ばれるべきだからです。

日本刀と包丁、どちらが優れているか、という議論が意味がないのと同じです。武士が戦に出るなら日本刀ですし、料理をするなら包丁を選ぶのと同じです。

あ、なぜ刀の話を出したかと言うと、最近「鬼滅の刃」が人気だという話を聞いたからです。主人公の鬼滅はとてもかっこいいという噂です。それ以上の意味はありません。

↓学習スタイルについての言及がある過去の記事です。良かったら御覧ください。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です