この⇩本です。
『言語はどのように学ばれるか』
『How Languages Are Learned 5th Edition』
英語版を並べたのは、日本語版にKindle版がないからです。私の場合職場に紙の本があったので、日本語版を読むことができました。英語でも問題ない!という方は英語版をどうぞ。
さて、例のごとく、といってもわからないと思いますが、この本を読むに際して「Xリーディング」をおこないました。読みながらXに内容を少しずつメモしておく方法です。以下、その内容を貼り付けますので、この本に興味のある方はご一読ください。
Xの一連の投稿を取得してコピペしているので、話の流れが見えにくいかもしれません。その場合は元ポストからご覧ください。
https://t.co/RVKluntBs1
— さくま しろう(佐久間司郎) (@shirogb250) October 20, 2023
紙の本があったので読み進めます。
第1章 幼児期の言語学習
当然だけど、(学童期の)語彙力は「どれだけ幅広く読書をするかによって決まります」。
同時バイリンガル→初めから二言語を学ぶ子
継起バイリンガル→途中から二言語を学ぶ子
減算的バイリンガリズム→L2を学ぶ過程でL1を失うこと
加算的バイリンガリズム→L1、L2共に学ぶこと
「どちらの言語も適切に使用する機会さえあれば、「幼児期の多言語習得には問題がある」という神話の裏づけはほとんどない(中略)2言語の習得が言語発達を実質的に遅らせるあるいは認知発達の邪魔になるという証拠は全くない」(p34)
第2章 第2言語学習
「よく使われる言語項目を必ずしも最初に学ぶわけではありません」
→a/theの使いわけは上級者でも困難
「学習者の母語は確かに影響しますが、母語が異なる学習者であっても発達段階の多くの側面が類似している」(p49)
この第2章では第二言語学習の共通性について述べられている。つまり学習者の母語や年齢や学習場面が違っても共通的に言えること。
第3章 第2言語学習の個人差
演繹的指導が生徒の言語適性の個人差を減らす効果があるかもしれないとのこと。つまり、説明→練習のやり方が異なる能力を持つ生徒たちが同じように言語を学べる可能性があるということらしい。合う合わないが少ないということ?
https://journals.sagepub.com/doi/10.1191/1362168805lr161oa
ということは、演繹的なやり方(ルールを先に教える)は、教室での人数の多い一斉授業においては、個人差を最小化するアベレージの高いやり方ということになる。その筆頭である教科書の名前が「みんなのにほんご」なわけだけど、名前からしてまさにその本質を体現していると言えるのですね。
しかし一方で、個人に目を向けるとある特定の方法では成果の上がらない学習者もいる。「適正プロフィールの異なる学習者のニーズに合う教え方を見つけること」が重要であるともある(p87)。「ひとつの教授法または教科書がすべての学習者のニーズに合うだろう」という意見には懐疑的にならざるを得ないということです。」(p88)
当たり前だけど、確認しておきたい事柄。
(p95)日本の高校生の英語学習において、「意味」のやり取りを学習者同士でおこなうのは好まれないとのこと。言語形式、文法について話し合ったりする方が好まれる。
これはグループワークやペアワークを考える上で重要な示唆ですね。
結果として、文法に焦点を当てた方が、生徒はより英語でコミュニケーションをとろうとする意欲が高まるという話。日本の高校生の話ですが、近隣の諸国でもそう言う傾向があるかもしれませんね。
「教師にできることは、学習者がストラテジーのレパートリーを増やしてさまざまな方法に柔軟に取り組めるようになるための援助です。」(p97)
いつL2教育を開始するかの時期については到達すべき目標とそこに辿りつくまでにどのくらいの時間が必要かのクールな計算が必要となる。いたずらに早期に開始すれば良いというものでもないとのこと(p104)
第4章 第2言語学習を説明する理論
練習を積めば手続的知識は宣言的知識をしのぐ。
「流暢な話者は、このプロセスを起動した宣言的知識をかつてはもっていたことすら忘れてしまう」(p113)
→なんか中島敦の名人伝を思い出した。
「言語は単語よりも大きな単位で学ばれる面が多少なりともあり、文や句は一度に一語ずつつなげられていくものではありません」(p115)
→チャンクとかコロケーションとかに通じる話。単語覚える時も例文の中で覚えろとかよく言いますね。
参考はNick Ellis (2003)(2005)など。
Lourdes Ortega(2007)
外国語教室でおこなう練習が持つべき3つの要素
1練習はインターアクション的であるべきだ
2練習は意味のあるものであるべきだ
3それを使わなければタスクが遂行できない形式に焦点を当てるべきだ
「Segalowitz (2010)が強調するのは、新しいことを学ぶための認知的リソースに余裕をもたせるために、自動的に使用できる言語の量を増やすことの重要性」(p123)
なるほど、流暢性を高めることによって他に使うキャパを広げると。Nationが言う流暢性を高める活動を薦めるときの理由づけになりますね。
ZPD(最近接発達領域)とi+1って結局同じじゃない?という疑問にNoと答えている。表面上は似ているけど、全然違うと。
ZPDは「場」の問題で、発達を強調している。「対話者とのインターアクションやプライベートスピーチに基づいて学習者が知識をどう共同構築するか」(p124)
Swainはイマージョン教育でフランス語に接する生徒のアウトプット力がインプットの理解度に比べて低いことからアウトプット仮説を主張(p125)。
イマージョンじゃなくても、現代ではインプットの機会はいくらでも作れる。そう言った意味でも教室でおこなうべきはアウトプットじゃないか(私の主張)。
第5章 第2言語の教室での学習と教授の観察
「自然な環境と教室環境」という項では、
・自然習得の環境
・構造中心の教授法の環境
・コミュニカティブ教授法の環境
それぞれの特徴がある程度詳細に示されている。(p130-p134)
フィードバックについて。Lyster &Mori (2006)ではカウンターバランス仮説が提唱されている。
「学習者が教育環境のもとでなじんできたものとは逆方向に注意を向けさせられると、フィードバックはより認識されやすい」(p150)
INTERACTIONAL FEEDBACK AND INSTRUCTIONAL COUNTERBALANCE | Studies in Second Language Acquisition | Cambridge Core
INTERACTIONAL FEEDBACK AND INSTRUCTIONAL COUNTERBALANCE – Volume 28 Issue 2
https://www.cambridge.org/core/journals/studies-in-second-language-acquisition/article/abs/interactional-feedback-and-instructional-counterbalance/74A5D6A472482AEE3E578571261BAAE6
つまり、言語形式に焦点をおく教授法クラスでは言語形式についてのリキャストは受け入れられやすいが、意味についてのリキャストをするときはスルーされることが多いということ。
ということは、教室の方向性と違うフィードバックをおこなうときは明示的なフィードバックをするべきだということかな。
(ちょっと話はずれるが)
実際、私も授業を受けていて、先生が私の回答をまとめるうような発言をしたときに、「あなたの発言はこういうことね、理解したよ」という意味なのか、(「正しくはこう言うのよ」という)フィードバックなのか、どう解釈すればいいのかわからない時がある。
「教師が生徒に時間をより多く与えるように訓練されると、生徒からの応答が増えるのみならず、答えが長く複雑になることも研究の結果わかりました。」
「 閉ざされた質問に比べて開かれた質問のほうがこの効果が大きくなると観察されている」(p156)
総学習時間が同じ場合、 集中して学んだ方が効果が高いとの話。 つまり毎日5時間ずつ5ヶ月か、毎日2.5時間ずつ10ヵ月かを比較すると前者の方が良い成績を取ったとのこと。 (p157)
これは、 もうちょっと調べてみたい。
この章では、
「教室という環境でおこなわれる教師と学習者のインターアクションの様々な側面を観察・記述するために使えるチャートや分類法の例」(p160)がそこそこ詳細に挙げられている。授業分析や模擬授業なんかもこういうやり方を使うと意義が出そうです。
第6章 教室での第二言語学習
この章では、6つの提案をおこなっている。
1最初から正しく
2聴くだけ、読むだけ
3話しましょう
4一石二鳥
5教授可能なものを享受する
6最終的に正しく
1 最初から正しく
このやり方「最初から形式の正しさのみを練習する」方法には限界があることを、いくつかの研究結果から指摘。しかしそれは「形式中心」の教授法を否定しているわけではなく、「コミュニケーション練習」を取り込むことを主張しているだけ。
2聴くだけ、読むだけ
・理解可能な言語に触れることだけでもかなりの進歩を遂げることができる
・しかし、それにプラスして「アウトプット」をする中で限界の線を拡張するともっと良いだろう
(p174,175あたりを私が解釈)
3話しましょう
Long&Porterの研究より
・学習者はネイティブとの会話よりも、学習者同士の方がよくしゃべる
・話相手のレベルと自身の発話のエラーは関係ない
→正確なインプットを提供し合えなくても、意味交渉のある本物のコミュニケーションを提供しあえる(p177)
Yule &Macdonaldの研究
・レベルの高い学習者がイニシアチブをとるような活動をすると、レベルの低い学習者は完全に受け身に回る。逆だと、双方の発話が増える
→ペアワークをする際にはレベルの高い学習者があまり優位に立たないような役割をあてがうべき(p178)
4一石二鳥
内容中心の教授法のことを指す。イマージョンとか。
L2でペラペラ話せるように見えても高度な言語使用には到達しないとか。言えることは、第一言語でずっと授業を受けていれば、教科科目も成績が良いということか。
あくまでも「言語教育の枠組みである」という認識が必要とのこと(p188)
5教授可能なものを教授する
習得には順番があり、その順番を無視して教えたところで習得にはつながらないのでは?という話。
ただし、習得につながるかどうかにはさまざまな要素が関係しており、「明らかに言えること」もあるとはしつつもこの辺の最終的な結論は留保されている。
Mackey&Philipの研究「準備ができている学習者」と「準備ができていない学習者」双方それぞれに「リキャスト有り無し」の実験?を行ったら、もっとも成果を上げたのは「準備できている学習者へのリキャスト有り」。
→リキャストに気づかないならそのレベルに達していないということでしょうね。
6最終的に正しく
要はフォーカスオンフォームの話ですね。「意味の伝達を中心としながらも形式にも目を向ける」。
ただし学習項目によっては違う教え方の方がいい場合もあるし、とにかく一つのやり方を盲目的に信じない方がいいというメッセージだと受け取りました。
私もおそらくこの部類(「最終的に正しく」)に属すると思います。
自分の独学の方法としても、基本は多読多聴。口頭練習も意味の伝達に焦点を置く。多読多聴や口頭練習でひっかったところはググる。
そして、自分がその系統だから授業でもそんな感じでいいんじゃないのと思いがちです。
課題はあるが、としつつ・・・
・形式だけ、意味だけに焦点を限定する方法は支持されない
・内容中心のインターアクションの枠組みをとり、その上で形式に注意を払う方式が最も支持されている(p209)
形式、意味の二者択一ではない。
「このふたつの方向に最良のバランスを発見すること」が課題。(p213)
とはいえ、言うはやすし、西川はきよしです。
第7章 言語学習に関する通説の再考
「第二言語学習はただ単に線的に発達していくわけではありません」(p223)
「教えたら使える」のではないということですね。
「先週やりましたよね?」「既習事項ですよ」みたいなの会話が先生同士でなされることも、昔はありましたね。
既習のもの、理解しやすいものだけに学習素材を限定するとネガティブな結果が出ると指摘。
「学習者はまだ「マスター」していない語彙や構造を含むテクストでも大体の意味は理解できるのです」(p224)
うまく習得する学習者は「まだマスターしていない実に多様な形式と構造に接している」(p224)
「活動がうまくデザインされていて、学習者の組み合わせも適切なら」という条件付きだが、「ペアワークとグループワークによって生じるスピーキングと会話参加の練習量の多さは、教師中心の授業が到底立ち打ちできるものではありません」(p225)
訳者あとがき
白井恭弘氏。日本の外国語教育は遅れていることを強調している。第二言語習得について完全にわかることはないが、その時代でわかっていることはちゃんと頭に入れておきましょうという話。
以上大変勉強になりました!
おまけ
訳者あとがきで白井先生が、
「多読・多聴を中心としたコミュニカティブアプローチは入試対策としても有効」(p261)としている。
それが書かれているのがこの本の5章らしいが、キンドルにはない。残念!
その他、最近の読書記録は↓
🔳『協働が拓く多様な実践』を読みました。Xリーディングの記録
🔳『AI時代の冒険家メソッド』をXリーディングした記録。
🔳「教師のためのChatGPTガイド」を読んだよ
🔳『日本語教師の専門性を考える』を少しずつ読んだ記録
🔳『学習者を支援する日本語指導法I 音声 語彙 読解 聴解』を読んだよ①
🔳『私たちはどう学んでいるのか』①スキルとしての言語